4月17日 目覚めをうながす瞑想会

2015年04月08日 16:50:35

カテゴリー:瞑想会

瞑想にも多くの種類がありますが、それらは最終的には「何もせずにただここにある」に集約されます。瞑想会ではそれを体験していただきます。

ただ、いきなり「何もせずにただここにある」というのは難しいです。  私たちのマインドは何かをすることに慣れており、何もしないことを嫌います。
そして、絶えず何かをしようと動き回ります。まずはこの動き回るマインドを鎮めていく必要があります。

そのために身体技法や音を用いるなど、いくつかの技法を用いていきます。技法はあくまでも技法であり、それが瞑想そのものではありません。
そしてマインドが鎮まったところで、「何もせずただある」ことに取り組んでいきます。

瞑想会ではまず浄化を伴う瞑想を行い、それから静かにただあるに入っていきます。
「何もせずにただある」を三つの次元から説明し、それに取り組んでいきます。

まずは気づきを明確にしていきます。気づきの対象ではなく、気づきの主体にとどまります。これをプレゼンスとも言います。
それからくつろいでいき、男性エネルギーと女性エネルギーを融合させていきます。この時私たちは「ただある」を実感し、それをビーイングとも言います。

そこから更にハートのワークを行っていきます。ここでいうハートはハートチャクラや肉体次元のハートではなく、この現象世界と神聖なる次元の橋渡しとなる深奥なものです。
ハートが活性化し開いてくることで、恩寵を受け取っていきます。それによって魂の目覚めが起き、この世を地に足を着けて生きることができてきます。

最初のうちは戸惑うかもしれませんが、それを理解した人と一緒に瞑想することで自分一人で瞑想するよりずっと容易に瞑想をしていくことができるでしょう。

瞑想会では瞑想の真髄を、段階を経て具体的に体験していけるように組み立てられています。
言葉でも説明していきますので、理屈と体験の両面から瞑想を理解していくことが可能です。わからないことがあれば、遠慮なく質問をしてください。

悟りや覚醒に関心がある方はもちろん、瞑想を体験してみたい方、心身の状態を改善されたい方、よりよい人生を過ごしたいという方などもぜひ瞑想会に参加し、ともに恩寵の降り注ぐ安らぎと至福に満ちた生を生きていきましょう。

◎ 日時 4月17日(金) 19時~21時 

◎料金  二千円  

◎場所 埼玉県 連絡があった方に具体的な場所をお知らせします。 

参加希望される方はお申込み・お問い合わせからご連絡お願いします。


私は無いと私は在る

2015年04月04日 07:29:48

カテゴリー:覚醒

私が瞑想リトリートなどでお世話になっている、リーラスペースのキヨタカさんから聞いたことだが、ある日キヨタカさんは、フーマンのセッションを受けていた。キヨタカさんはその前にアジズのセッションを受けていて、中心軸を確立していた。

フーマンから、あなたの中心はどこにある?と聞かれ、キヨタカさんは自信満々体の中心に確固たる軸が存在していると、身振りを交えて答えた。するとフーマンはそれではない、とその答えを否定した。
キヨタカさんは面食らったが、フーマンと共に座っていると、確固たる中心軸が広がっていき、希薄になっていった。中心軸が感じられなくなったので、nowhere、と答えると、フーマンは我が意を得たりとばかりにうなずいた。
それからキヨタカさんは、中心軸が広がっていき、全てに偏在している、というようにも感じられたので、everywhere、とも答えると、フーマンは満足そうに同意したという。
このことに関して、フーマンとキヨタカさんとの間で交わされたやり取りを一部紹介する。

キ:私はずっとアジズの修業をしていて、私のI AMという感覚は、ちょうどこのようなんですが、、。

{自分の身体を貫く垂直なエネルギーの柱を指し示して、説明した。}

 

 

フ:最初のステージではその様だろう。

{アジズの下での修業の成果を、最初のステージと言われてショックを受けた。}

 

 

キ:最初のステージ、、ですか?

 

 

フ:そうだ。私の所へ来ると、I AMの感覚がシフトする。

あなたは、自分のIAMをここ(身体を指す)に感じている。
それは始まりに過ぎない。

 

 

キ:・・・・。(返す言葉が見つからない。)

 

 

フ:それからだんだんと進歩につれて、このI AMが広がってシフトする。

それは、あなたのI AMではない。

 

 

それはキヨタカのI AMではない。

 

 

あなたのいう、このI AM は実際には気づきの初期のステージだ。

 

 

これは、完全なI AMではない。

 

 

これがあなたの周囲全体に広がった時、それが真のI AMだ。

 

 

I AMのプレゼンスは、あらゆる所にある。

 

 

しかし探求の始まりとして、ステート オブ プレゼンスの確立を通っていく必要がある。

それはここ(身体を指す)であって、あなたの気づきはそれ程身体から離れないですむ。

その後で、あなたは今への広がりを体験するが、それがすなわちあなたのビーイングだ。

 

 

あなたのビーイングは、あらゆる所にある。

 

それを体験しなさい。

 

マインドが落ちそれを体験して始めて、ノーマインドのフィーリングがある。

 

 

それから、だんだんと統合が起こる。
それが起こると、あなたはそれを完全に体験し始める。

 

 

すると、それはあなたのI AMではなかったことが分かる。

それはキヨタカのI AMではなかった。

 

 

なにかとても違ったもので、非個人的なI AMだ。

それを、UNIVERSAL I AMと我々は呼んでいる。

 

 

あなたのまさに私(ME)がより透明になる。
あなたは、だんだん純粋なビーイングに存在するようになる。

 

 

あなたが修業してきたステート オブ プレゼンスのワークの果実を、私はあなたからもぎ取る。

そしてそれをより高い境地へと広がらせよう。

 

 

その為に、あなたはここへ来たのだ。

 

そのワークのためには、あなたのマインドの大部分を落とす必要がある。

すでに話したとおり、あなたの過去生でのワークは集中するワークだった。

 

 

「あなた」が、集中していた。

 

 

今、あなたは消え去って「今」へと広がっていく必要があり、それは今年中になされるべきだ。

そのワークを私はあなたと共に行う。

 

最初あなたのマインドはちょっと抵抗するだろう。

 

 

やがてあなたの中心がシフトして、中心というものがない状態になる。
そうしてあなたは、周囲全体に平和を見いだすようになる。

 

 

もう一度繰り返すが、あなたのI AMは内側にはない。

 

 

あなたが今を充分に体験すると、「今」はあなたの内側にはない事がわかる。
あなたの肉体の中には位置していないのだ。

 

ワークの第一段階は終了している。

 

 

あなたは、すべてのエネルギーを一カ所に集めた。

 

 

今、このエネルギーはゆっくりと全てに偏在するビーイングへと変容されなければならない。

だからあなたのプレゼンスは、だんだんとあなたの周囲全体へ溶けて広がるのを見てごらん。

 

 

特定の場所には感じなくなる。

 

 

そして、ただ在るというのはどういう感じなのか見てごらん。

 

 

あなたの内側で、いつもそうであるものは何か?

 

 

それはマインドよりも深い。

 

 

そして、純粋なビーイングの感覚として存在している。

それはマインドあるいはキヨタカの思考とは何の関係もなく、ただまさに存在している。

 

あなたの中にあってマインドや思考でないものは何か?

 

 

空になりなさい。

 

 

そしてだんだんとその空があなたのビーイングであり、純粋なビーイングとして存在全体へ広がる。

 

 

目を閉じて…

 

 

集中しないでただ在りなさい。

 

 

空になるように。

 

 

・・・ただ、在りなさい…

・・・ずっとずっと長い間、あなたはただノーマインドのスペースに寛ぐことを待っていた…

 

 

 

最初は中心を確立して、それからそれが拡大していく。初めから中心がないと、非常にあやふやな状態となる。だから始めは中心軸をはっきりさせる必要があるが、そこにとどまってしまうと、広がりや深みが生じない。
中心軸があるというのは、垂直次元のことであり、それは全体の一側面にすぎない。垂直次元の確立から、全方位へと広がっていく。そして中心がなくなる、あるいは全てに偏在していくようになる。
私は無い、という見解と、私は在るという見解もある。中心が無いという立場だと私というものは無いという見解になるし、中心が偏在しているという体感をするならば、私は在るという表現になるだろう。この二つは違うという人もいるだろうが、根底において私は同じことではないかと思う。
私は無いも、私は在るも、間違いなく自我意識による「これが私だ」ではなく、それを超えたものを指している。この点においても二つは根底では一緒である。
私は無いは、仏教的な見解で、私は在るはヒンドゥー教的な見解と言えると思う。自分たちの見解が正しいとこだわる人達は、自分の信じているものは正しくて、他は間違っているとしてしまう。私は無い、私は在るこの二つにおいても、自分が信じるものを肯定し、そうでないものを否定して、論争が起こることも少なくない。
私は無いでも私は在るでも、どちらの見解を用いるとして、自我を超えていけるならどちらでもいいと思う。どちらが正しい、間違っているということは、さして重要なことではない。むしろそれに拘りすぎることで、本質から離れていってしまうこともあり得る。
それよりもどちらの見解であろうと、自我を超えていけるのならば、それこそが真に価値のあることだ。自分の正しさを証明するための論争にふける時間があるのなら、その時間を自我を超えるために使った方がずっといい。正しい間違っているの論争にふけることで、自我を超えるどころか、益々増大させることにもなりかねない。
自我を超えるには、論理や理屈をこね回しても、それで到達することはできない。体感を伴うことで真の理解が生じ、実際に自我を超えていくことができる。ただこの体感もくせもので、自我を超えていく体感ならいいが、自我を増大させてしまうものもある。これは気をつけないといけない。
何らかの体感があり、それを特別視してしまうようなら、それは自我を増大させることとなる。体感があってそれを客観的に見つめ、内面が静まっていくようなら、それは自我を超えていく体感と言えるかもしれない。ただこれも個体差があるので、絶対こうだと言い切れるものではない。間違いなく言えるのは、体感したことにとらわれるとするならば、それは危険であるということだ。
キヨタカさんが体感した、nowhereとeverywhereの体感は、自我を超える体感であろうと思う。それは本を読んでもそう思うし、実際にキヨタカさんと会って話したり、一緒に瞑想をすることでもそれがわかる。
残念ながら今の所自我を超えていく体感をして、それが定着してきている人は、まだそれほど多いわけではない。修行や瞑想をして、何らかの体感をしている人はある程度いる。しかし自我を超える方向に向かう人は、自我を増大させてしまう人より少ない。
だが少しずつ自我を超える方向にシフトしている人もでてきている。こういうと「今は個人主義が蔓延し、かえって自我を増大させる人が増えているじゃないか」という人もいるだろう。確かに表面上ではそう見える。だがその背景では自我を超えつつある人がでてきているのも事実だと思う。
今はシフトの時期であり、いったん個人主義が蔓延し、自我を増大させる人が増えてくるのだろう。しかしある時期がくれば一気に反転する、あるいはじわじわと変化していくのではないかと思う。
こうは言っても私は決して楽観視をしているわけではない。今後自我を増大させる方向に向かうのか、自我を超えていけるのか、それは私たち自身の問題である。今はどちらにも転換し得る状況だと感じる。楽観視も絶望もせず、自我を超えていくことを自分なりに取り組んでいきたい。

ワンネスワーク

2015年03月14日 18:29:21

カテゴリー:瞑想会

身体をゆるめる気功とヨーガ、シンギングボウルの音と波動で眠りにつく前のリラックスした変性意識状態から本当の自分を思い出すための瞑想を行ない。

身体の感覚を忘れた無の状態で根源のハートを開き、ワンネス体験と気づき波動を共鳴しあいます。

◎内容 気功・ヨーガ・シンギングボウル・瞑想・茶話会

◎日時 3月28日(土)PM7:30~9:30

◎参加費 2000円

◎場所 東京都清瀬市野塩4-93ー23気功整体院癒し処「和庵」(駐車場有)
志木街道沿い信愛病院前 西武池袋線秋津駅・武蔵野線新秋津徒歩15分

参加希望される方はお申込み・お問い合わせよりご連絡下さい。


瞑想会のお知らせ

2015年03月11日 15:36:06

カテゴリー:瞑想会

瞑想と一口で言っても多くの種類があります。マントラ(真言)を唱え続ける。呼吸を数える。マンダラや仏画を見つめる。神や仏などをイメージする。その他数えていけばきりがないでしょう。  

しかしそれらは最終的には「何もせずにただここにある」に集約されます。恩寵の光の瞑想会ではそれを体験していただきます。

ただ、いきなり「何もせずにただここにある」というのは難しいです。  私たちのマインドは何かをすることに慣れており、何もしないことを嫌います。そして、絶えず何かをしようと動き回ります。まずはこの動き回るマインドを鎮めていく必要があります。

 そのために身体技法や音を用いるなど、いくつかの技法を用いていきます。技法はあくまでも技法であり、それが瞑想そのものではありません。  そしてマインドが鎮まったところで、「何もせずただある」ことに取り組んでいきます。

最初のうちは戸惑うかもしれませんが、それを理解した人と一緒に瞑想することで自分一人で瞑想するよりずっと容易に瞑想をしていくことができるでしょう。

この瞑想会では瞑想の真髄を、段階を経て具体的に体験していけるように組み立てられています。言葉でも説明していきますので、理屈と体験の両面から瞑想を理解していくことが可能です。わからないことがあれば、遠慮なく質問をしてください。

  悟りや覚醒に関心がある方はもちろん、瞑想を体験してみたい方、心身の状態を改善されたい方、よりよい人生を過ごしたいという方などもぜひ瞑想会に参加し、ともに恩寵の降り注ぐ安らぎと至福に満ちた生を生きていきましょう。

今までの瞑想会でも様々な音を駆使して、瞑想の手助けとしてきましたが、今後は今までよりもよりクリアで鮮明な音が私たちを包み込みます。それも楽しみにしてください。

◎ 日時 3月28日(土) 14時~17時 

◎料金  三千円  

◎場所 埼玉県 連絡があった方に具体的な場所をお知らせします。      

 

参加希望される方は、お申し込み・お問い合わせかbodaisinn@gmai.comからご連絡お願いします。

 


誕生日にて  時間と記憶について思ったこと

2015年03月06日 10:12:53

カテゴリー:エッセイ

3月2日は私の誕生日だが、先日友人達が我が家まで来てくれて、みんなで飲んで 、食べて、喋って、楽しく過ごした。

あまりにも楽しくて、時間があっという間に過ぎ去ってしまい、昼から始めて夜の23時に御開きとなったが、とてもそれほどの時間が経ったとは感じられなかった。

 

 

これはみんなが体験していることだが、楽しい時は時間があっという間に過ぎ去り、辛い時にはなかなか時間が経たない。

子供の頃夢中になって遊んでいて、気がついたら暗くなっていたというのは、誰にでも覚えがあるだろう。
逆につまらない授業などは、いつになったら終わるのだというくらい、時間がなかなか進まない。

 

 

時間も絶対的なものではなく、相対的なものである。物理的な時間があるように我々は思い込んでいるが、地球の公転と自転を元に人間は時計を作り出し、それによって時間を計っている。
もしも自転や公転のスピードが変わってしまうと、時間も変化するということになってしまう。

事実地球の回転が速まったということも言われているらしい。そうなるといずれは1日が24時間ではなくなってしまうかもしれない。人間の定めた時計も絶対ではない。

 

 

そして時の流れも、それぞれの主観によって大きく異なってくる。子供の頃はなかなか時間が経たず、一年がとても長く感じられるが、大人になると一年などあっという間に過ぎてしまう。これも多くの人が感じていることだろう。

大人にとって5年という年月はこれまでの一生の中でごく一部に過ぎないが、10歳の子供にとっては、人生の半分である。
人生の半分と一生のうちのごく一部では、感じ方が全く異なってくるし、意味合いも大きく違う。時の流れは一様ではない。

 

 

私たちは時に支配されているが、時の支配から脱却し、それが一つの共同幻想に過ぎないと理解できれば、様々な苦痛が軽減され、もっと楽で軽やかに生きることができる。
それは苦痛のほとんどが、過去や未来にとらわれることから生じるからである。

私たちは過去を振り返って「あの時ああしておけばよかった」「あいつにあんな目に遭わされた」などという思いをつのらせ、苦しみに没入してしまう。

また未来に思いを馳せ、「このままでは自分はどうなってしまうのか?」「このままでは将来が不安で仕方がない」というようにやはり苦痛の中に入り込んでしまう。

 

 

ところが今この瞬間に在れば、実際に肉体を痛めつけられたりといった、苦しみの真っ只中にいることがない限り、苦痛にもだえるっこともない。

今ここに在るというのは、時間の幻想から抜け出していくことであり、それによって私たちに真の解放が訪れる。
もちろんこれは単に思い込むだけではダメで、「今に在るんだ、今に在るんだ」と言葉で唱えつつ、意識は過去や未来に在ればそれは意味がない。

 

 

ともかく、時間も幻想であることをまずは理解する。幻想とは全く存在しないということでなく、究極的には存在しないが、この現象界において存在はするが、それは私たちが作り出しているものだと理解をする。

そうすると時間の幻想から少しずつ抜け出していくことができる。そして過去や未来にあまり意識が向かわず、今ここに在ることができるようになっていく。

 

 

このように時に関しての考察を深めたが、今回は記憶についても色々と思うことがあった。

 

 

誕生日では少々アルコールを飲み過ぎて、途中の記憶が抜け落ちていた。
後で確認すると周りに迷惑はかけていなかったが、同じことを何度も繰り返し言ったりやったりしていたらしい。あまりにも楽しくて少し飲み過ぎてしまったが、悪い酒ではなかったようでそれは幸いだった。

 

 

鍋に餃子を入れたかどうか何度も確認したり、鍋のふたを自分で傍らに置いておきながら、「鍋の蓋はどこへ行った?」と周りに聞いていたらしい。
私にはその記憶が全くない。傍から見れば変なおじさんが酔っぱらってあほなことを繰り返していたとしか見えないだろう。

 

 

みんなで鍋を囲み、用意していた材料はみな食べ尽くしたが、自分が鍋物を食べた記憶が抜け落ちている。
しかし、後で聞いてみると私はちゃんと鍋を食べていたようで、自分が覚えていないだけだった。

肉体的には鍋物を食べているが、自分の認識では食べておらず、自分としては鍋物を食べていないに等しい。これはなかなか面白いことである。

 

 

私達は記憶にも支配されている。今回私がみんなから「すっかり酔っていて、鍋を食べていないよ」と言われたら、私はそれを信じ込み、誕生日で鍋物を食べなかった、という認識が生じるだろう。
そして自分にはそれが真実となってしまう。これは考えてみるとなかなか恐ろしいことだ。

 

 

士郎正宗原作の漫画で「攻殻機動隊」というものがある。これは押井守らによってアニメ化もされているが、かなり評判の良い作品である。物語の舞台は近未来で、多くの人々が義体となっており、つまり機械の身体になっている。

そして義体にアイデンティティや記憶をインストールするのだが、偽物のアイデンティティや記憶を植え付けられてしまった人がいて、自分とは一体なんなのか?と苦悩するエピソートがある。

 

 

肉体があり、そこに全く別の記憶を植え付けられたら、肉体はその記憶通りの反応をするだろう。記憶が入れ替わる度に違う反応をしていくならば、肉体は単なる器ということになる。

肉体は私のものだと思い込んでいる人も多いが、このようなことが実際に起こると、果たして肉体が自分のものと言い切れるかというと、それが怪しくなってしまう。

 

 

肉体は自分ではない。記憶も自分ではない。そうすると自分とは何なのか?私は誰なのか?これは人類の根本的な問いかけであり、ラマナ・マハルシはこの問いかけをしていくことが、人を目覚めさせると言っている。

普段私たちは日常に埋没して、こういう問いかけをすることがない。それによって益々本来の自分を見失ってしまう。

 

 

「私は誰か?」という問いかけをできない時は、自我に埋没している状態である。できるだけ自我から離れて、「私は誰か?」の問いかけをすることが大事だが、日常においてはこれを忘れてしまう。

 

 

こうすれば「私は誰か?」の問いかけができる、というものもないが、深呼吸をすることで自我の働きがいったん弱まり、その時に「私は誰か?」をすることがしやすくなる。
また体を動かすことでも、自我の働きが一時的に弱まって、問いかけをしやすくなることもある。

 

 

初めから静かにして、「私は誰か?」と問いかけられる人はあまりいない。自我に翻弄されている状態で、静かに問いかけることはほぼ不可能である。

だからまずは準備が必要で、それは人それぞれ違う。自分にあった形での準備が必要であり、準備が整ったら、ただ静かにして「私は誰か?」を問いかける。

初めは答えなどでてこないだろう。最初はそれでいい。初めからうまくいくことはそうあるものではない。
まずは普段はしない問いかけをするところから入っていく。それを繰り返していくことで、自我を超えたところから回答が与えられることがある。

 

 

ただ これは自力だけではなかなか難しい。やはりしっかりとした指導を受けた方がいいことは言うまでもない。しかし勘違いしてはいけないのは、指導者が回答を与えるのではなく、自分自身で回答を見出すのである。

それを勘違いする人も多いが、あくまでも指導をする人はきっかけを与えたり、方向性をずらさないようにするに過ぎず、あくまでも気づいていくのは自分である。

 

 

誕生日では少々失態も演じたが、今回改めて気づかされたことも多かった。仲間たちと楽しくて過ごし、なおかつ今までよりさらに深い気づきも生じ、とてもいい誕生日となった。

自分自身は固定されたものでなく、瞬間瞬間変化しているが、誕生日という区切りで、より大きなシフトが生じたような気がする。

 

 

宴が終わり静かに内面を見つめていたら、自分を制限していた枠組みが外れていき、より器が広がった感じがする。それは単なる思い込みではなく、実際にそれを体感もしている。
それは時間や記憶に関する気づきが深まったことでもあるだろうし、みんなに祝福されたその恩寵にもよるのではないかと思う。

 

 

年齢は重ねたが、その一方で新たに生まれ変わった自分がいることがわかる。一年後どうなっているか。それがまた楽しみでもある。