恩寵を分かち合う瞑想会

2015年07月04日 07:45:02

カテゴリー:瞑想会

恩寵は常にここにありますが、私たちの側が閉じていて、恩寵を受け取ることができなくなっています。この瞑想会では、恩寵を受け取るきっかけとなることを目指します。

恩寵とは何か?それは言葉で説明できるものではありませんが、あえて言うならばこの世を超えたより微細な次元からのものです。
それを光として体験する人もいるでしょうし、エネルギーを感じる人もいるかもしれません。体験は千差万別ですが、大元は一つです。

恩寵を受け取る鍵はハートにあります。瞑想会ではハート瞑想を行いますが、それでは十分ではありません。
その背景に気づきとくつろぎがあります。まずは気づきを明確にし、それから心身をくつろがせ、男性原理と女性原理を統合させていきます。

気づきがなくハートが開くと、方向性を見失います。そしてくつろぎリラックスすることで、広がりと深みが生じ、ハートが開いていく準備ができます。それからハート瞑想に取り組むことで、恩寵を受け取ることができてきます。

瞑想会ではこれらのこと以外に、身体技法や音を用いて、瞑想しやすい状態を形成していきます。
ですから瞑想初心者の方でも、安心して参加していただけます。瞑想に慣れた方は、普段とまた違った広がりや深みを体験できるかもしれません。

覚醒者の中には、「恩寵の働きがないと、覚醒は生じない」という人もいます。恩寵は魂の目覚め、覚醒において非常に重要なポイントです。
そして魂の目覚めや覚醒に関心がない方でも、恩寵の働きによって、この世の苦しみを軽減させ、できるだけ楽に生きていくことが可能となるでしょう。

◎日時   7月23日(木) 19時~21時  7月25日(土) 14時~17時

◎料金  23日 2000円  25日  3000円

◎場所  埼玉県  申し込みをされた方に、具体的な場所をお知らせします。

参加希望される方は、お申込み・お問い合わせから連絡お願いします。



6月9日 6月21日瞑想会

2015年05月26日 15:24:19

カテゴリー:瞑想会

瞑想にも多くの種類がありますが、それらは最終的には「何もせずにただここにある」に集約されます。瞑想会ではそれを体験していただきます。

ただ、いきなり「何もせずにただここにある」というのは難しいです。  私たちのマインドは何かをすることに慣れており、何もしないことを嫌います。
そして、絶えず何かをしようと動き回ります。まずはこの動き回るマインドを鎮めていく必要があります。

そのために身体技法や音を用いるなど、いくつかの技法を用いていきます。技法はあくまでも技法であり、それが瞑想そのものではありません。
そしてマインドが鎮まったところで、「何もせずただある」ことに取り組んでいきます。

瞑想会ではまず浄化を伴う瞑想を行い、それから静かにただあるに入っていきます。
「何もせずにただある」を三つの次元から説明し、それに取り組んでいきます。

まずは気づきを明確にしていきます。気づきの対象ではなく、気づきの主体にとどまります。これをプレゼンスとも言います。
それからくつろいでいき、男性エネルギーと女性エネルギーを融合させていきます。この時私たちは「ただある」を実感し、それをビーイングとも言います。

そこから更にハートのワークを行っていきます。ここでいうハートはハートチャクラや肉体次元のハートではなく、この現象世界と神聖なる次元の橋渡しとなる深奥なものです。
ハートが活性化し開いてくることで、恩寵を受け取っていきます。それによって魂の目覚めが起き、この世を地に足を着けて生きることができてきます。

最初のうちは戸惑うかもしれませんが、それを理解した人と一緒に瞑想することで自分一人で瞑想するよりずっと容易に瞑想をしていくことができるでしょう。

瞑想会では瞑想の真髄を、段階を経て具体的に体験していけるように組み立てられています。
言葉でも説明していきますので、理屈と体験の両面から瞑想を理解していくことが可能です。わからないことがあれば、遠慮なく質問をしてください。

悟りや覚醒に関心がある方はもちろん、瞑想を体験してみたい方、心身の状態を改善されたい方、よりよい人生を過ごしたいという方などもぜひ瞑想会に参加し、ともに恩寵の降り注ぐ安らぎと至福に満ちた生を生きていきましょう。

◎ 日時   6月9日(火)  19時~21時  6月21日(日) 14時~17時

◎料金   6月9日 二千円      6月21日 三千円

◎場所 埼玉県 連絡があった方に具体的な場所をお知らせします。 

参加希望される方はお申込み・お問い合わせからご連絡お願いします。



5月16日 目覚めをうながす瞑想会

2015年04月28日 15:28:46

カテゴリー:瞑想会

瞑想にも多くの種類がありますが、それらは最終的には「何もせずにただここにある」に集約されます。瞑想会ではそれを体験していただきます。

ただ、いきなり「何もせずにただここにある」というのは難しいです。  私たちのマインドは何かをすることに慣れており、何もしないことを嫌います。
そして、絶えず何かをしようと動き回ります。まずはこの動き回るマインドを鎮めていく必要があります。

そのために身体技法や音を用いるなど、いくつかの技法を用いていきます。技法はあくまでも技法であり、それが瞑想そのものではありません。
そしてマインドが鎮まったところで、「何もせずただある」ことに取り組んでいきます。

瞑想会ではまず浄化を伴う瞑想を行い、それから静かにただあるに入っていきます。
「何もせずにただある」を三つの次元から説明し、それに取り組んでいきます。

まずは気づきを明確にしていきます。気づきの対象ではなく、気づきの主体にとどまります。これをプレゼンスとも言います。
それからくつろいでいき、男性エネルギーと女性エネルギーを融合させていきます。この時私たちは「ただある」を実感し、それをビーイングとも言います。

そこから更にハートのワークを行っていきます。ここでいうハートはハートチャクラや肉体次元のハートではなく、この現象世界と神聖なる次元の橋渡しとなる深奥なものです。
ハートが活性化し開いてくることで、恩寵を受け取っていきます。それによって魂の目覚めが起き、この世を地に足を着けて生きることができてきます。

最初のうちは戸惑うかもしれませんが、それを理解した人と一緒に瞑想することで自分一人で瞑想するよりずっと容易に瞑想をしていくことができるでしょう。

瞑想会では瞑想の真髄を、段階を経て具体的に体験していけるように組み立てられています。
言葉でも説明していきますので、理屈と体験の両面から瞑想を理解していくことが可能です。わからないことがあれば、遠慮なく質問をしてください。

悟りや覚醒に関心がある方はもちろん、瞑想を体験してみたい方、心身の状態を改善されたい方、よりよい人生を過ごしたいという方などもぜひ瞑想会に参加し、ともに恩寵の降り注ぐ安らぎと至福に満ちた生を生きていきましょう。

◎ 日時 5月16日(土) 14時~17時 

◎料金  三千円  

◎場所 埼玉県 連絡があった方に具体的な場所をお知らせします。 

参加希望される方はお申込み・お問い合わせからご連絡お願いします。



これからのこと

2015年04月24日 00:08:07

カテゴリー:エッセイ

 

 このホームページにおいて、私は覚醒や魂の目覚めのサポートをしていく、という趣旨のことを書いてきました。今でもそれは変わりませんが、それだけではなく日常生活もより良く生きていくことも非常に重要であり、日常生活を無視できないという思いが近頃生じてきています。

最近では覚醒したと称する人たちも増えてきました。ホームページやブログで自称覚醒者が色々なことを主張し、書籍でも覚醒を題材にしたものが増えてきています。それはそれで結構なことですが、自称覚醒者の人たちのブログ等を見ても、どこか浅薄な印象を抱いてしまいます。

覚醒したと称する人々は、覚醒の一瞥をしていることでしょう。一瞥することは素晴らしいですが、それが定着していないのに覚醒したと称し、様々な主張をしたり、セミナーを開催したりしています。その覚醒が本物ならば何の問題もないですが、文章から感じられるものは、表面はキラキラしていますが、深みを感じられないものがほとんどです。

その一方で魂の目覚めだけでなく、日常も重要視しているスピリチュアル関連のホームページやブログを読むと、表面上の輝きだけでなく、深みや広がりも感じることが多いです。そういう人たちはバランスが取れています。

私はかつて日常生活を軽視し、悟りだ解脱だと意気込んでいましたが、内側だけに向かえば向かうほど、どんどんバランスを崩してしまい、悟りはおろか人としてきちんと生きるという最低限のことも危うくなってしまいました。

それが7〜8年ほど前から、精神世界だけでなく、日常生活もしっかりと生きることを心がけるようにしたところ、精神も落ち着いてきて、エネルギーも以前より更に充実してきました。ですがまだ悟りや覚醒といったものに対するこだわりは残っていました。

それが今年に入ってから心境の変化があり、悟る悟らない、覚醒するしないということも手放してくると、更に大きなシフトが起きてきました。これは言葉ではうまく表現できませんが、今まで引っかかっていたものが落ちてきているような感じがしています。逆説的に悟りや覚醒へのこだわりを落とすことで、更にそれらに近づいてきているような気がします。

私に瞑想を教えてくれた人も、近頃では悟りや覚醒だけでなく、日常をより良く、より楽しく生きていくことを伝えていきたいと言っていました。その人は瞑想だけでなく、この世も充実して楽しく生きていることが、側から見てもよくわかります。
瞑想ばかりに耽り、内側だけに籠るのではなく、内面も外面も充実させることが大切だと、その人の生き様を見ていて実感するようになりました。

かつての宗教や精神世界は、内面を探求していくと、この世から離れていき、悟りや解脱に至るというものでした。そうしたい人はそうすればいいでしょう。しかし現代では、世捨て人となる人もそうはいず、日常を生きながら精神の探求をする人がほとんどです。

日常生活を営みながら日常を否定してしまうのは、非常にアンバランスです。瞑想体験は優れていても、日常でははちゃめちゃという人もいて、スピリチュアルを学んでいても、日常で苦しんでいる人も数多くいます。そういう人たちは、日常から目を背け、内面に逃げ込んでいるのでしょう。

覚醒体験をすることは、以前よりも難しくなくなってきています。ですがそれが日常で生かされていないケースも多くあります。私はこれからは覚醒体験のサポートではなく、それからどう生きるか?それをどう応用していくか?ということをより志していきます。そして覚醒にもこだわらず、日常で疲れている人には癒しのサポートをしたり、肉体上の健康についても何かできればと 思います。

もちろん日常を大切にするからといって、日常生活に埋没し、迎合することを良しとしているわけではありません。日常生活を楽しむというと、快楽に耽ったり、欲望のままに生きることだと考える人もいるかもしれませんが、私が言っている日常生活を楽しむというのは、そういうことではありません。

快楽に耽り、欲望の赴くままに生きることは、それらの奴隷になっています。何かに縛られることなく、本来の自分の有り様で生きることです。それは真に魂が目覚めることで、それが可能となります。
今までは覚醒すると世の中から離れていきましたが、これからはそうではなく、覚醒することで、より世の中を充実して生きていくことができる時代となってきています。それこそがこれからの覚醒のあり方です。

そして魂の覚醒ということを必ずしも目指さなければならないわけではなく、日常をより良く、より楽しく生きられればいいという人はそれでいいのです。誰もが皆同じことをする必要はありません。みんな違ってみんないいのです。

これからの私は、瞑想会や個人セッションでも、覚醒のことばかりではなく、日常生活に瞑想やセッションを生かしていくことを念頭に置いていきます。癒しやストレスを解消したいなどという方もどうぞご連絡ください。

何はともあれ、今後ともどうぞよろしくお願いします。



瞬間瞬間を楽しむ

2015年04月08日 21:26:20

カテゴリー:エッセイ

スピリチュアルの世界では、引き寄せの法則が一部の人達の間で流行っており、また源泉につながれば、この世も思うがままになると主張する人もいる。それはそれでいいだろうし、実際にうまくいっている人もいるだろう。だが私は今のところその立場ではない。

 

 

現時点で私は、あらゆることが自分の思うがままになってはいない。この世で生きている以上、なんらかの願望が生じることがあるが、かなうものもあるが、全く現象化しないものもある。

 

 

数年前から私は、誰かと一緒に何らかのワークなり、イベントなどを行えたらいいなと考えていた。それは自分一人の力では限界があるし、一人でいるとどうしても独りよがりになってしまう傾向があるので、そうならないためにも誰かと組んでワークなりイベントなりを行えればいいなと思ったのだった。

 

 

ところが何人かの人達に、一緒にこれこれこういうことをやってみませんか?と持ちかけてみても、ことごとく断られたり、急にダメになったりということが続いている。

わたしの力不足というのはもちろんだが、話を持ちかけた人達は、おたがいに信頼関係ができている人達ばかりで、こちらから信頼もできてない人に押しかけるならともかく、ある程度話し合ったり私ができることを体験してもらった上で断られたりダメになっているので、これはこちらの意図を超えたものの働きかけがあるのだと感じている。

 

 

引き寄せや思うがままに生きる、という立場ではないならば、どのような立場ではいるのか?私は瞬間瞬間をできるだけあるがまま受け止め、できるだけ楽しむように心がけている。今のところこのような在り方が、自分にはしっくり来る。将来的にはあらゆるものを引き寄せて、願望を叶えまくっているかもしれないが、現時点ではそちらの方向に向かわず、起こることを受け入れて、楽しむことをやっている。

 

 

世の中にはギャンブルにはまっている人が多くいる。ギャンブルをしない人から見ると、ギャンブルにのめり込んでいる人達は、かなり奇妙に見えるだろう。

ギャンブルで勝ち続けることはほぼ不可能で、ほとんど人がお金をすってしまう。馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたこともない。しかしそれにも関わらず少なからぬ人々が、ギャンブルにのめり込んで勝った負けたと一喜一憂している。

 

 

私はギャンブルをやらないが、ギャンブルにのめり込む人達の心理がわからなくもない。ギャンブルで負けていて、時々勝った時の快感たるや、忘れられないほどのものだろう。私の勤め先で、パチンコだ競馬だとギャンブルにはまり込んでいる人達が何人もいるが、景気のいい話などほとんど聞いたことがない。大抵が昨日はいくらすった、今日はこれだけ負けたとという話ばかりである。

 

 

それがたまに今回は大勝した、ということがあり、その時はもう満面の笑みを浮かべている。そして勝った時の快感をまた体験しようと金をつぎ込み、今度はこっぴどく負けてしまう。それの繰り返しである。ギャンブルは中毒になるというが、ギャンブル好きは程度の差こそあれ、みんな中毒になっているといえる。

 

 

それだけの魔力がギャンブルにはあるが、これが常に勝ち続けるとなると、ほとんどの人が飽きてしまうはずである。常に勝つとわかっていたら、勝った時の快感がかなり薄まってしまうだろう。人間というものは何でも思い通りになるとそれに飽きてしまう。そもそもこの世は楽あれば苦ありという思いが強くある。水戸黄門ではないが、人生楽ありゃ苦もあるさである。

 

 

映画「マトリックス」で主人公ネオを導くモーフィアスが、敵であるエージェントに捕獲され、拷問を受ける場面がある。エージェントスミスは、モーフィアスに仮想現実であるマトリックスの成り立ちを語る。

 

 

「そもそもマトリックスは、人々が苦しまずしあわせに暮らせる理想郷を築くために考案された。だがプログラムは拒絶され、中の人々は全滅した。我々のプログラムが、理想郷を描くには不十分だったと言われた。

だがそれは違う。そもそも人類は、不幸や苦しみがないと現実とは思えない種なのだ。だからこそ理想郷は、人類の原始的な脳には悪夢となり拒絶された」

 

 

ここでエージェントスミスが語るように、人類は喜びだけではこれが現実と思えないようであり、また満足をしない。ずっと勝ち続けるギャンブルをつまらなく感じてしまい、また人生は楽あれば苦ありというものだという思いが根づいている。だから何でもかんでも引き寄せて、思うがままに生きるとしても、何か物足りなさを感じたり、飽きてしまうのではないか。少なくとも私はそうである。

 

 

ではわざわざ苦労をすればいいのか?ということにもなるが、それも極端であろう。苦労は買ってでもしろ、とも言うが、あまり苦労ばかりしすぎても人間は歪んでしまう。苦労をしてそれが生かせればいいが、生かすことができなければあまり意味はない。楽に生きてもそれを生かせれば大いに意味はある。要はその人次第である。

 

 

 

そんなわけで、私は何でも思い通りにいくことを望まず、苦労をわざわざ買うこともせず、瞬間瞬間起こることを自然に受け入れ、楽しむことにしている。この世で体験することは、色々と大変なことも多いが、貴重なものでもある。熱心に修行をしている人の中には、この世をひどく毛嫌いし、世俗的なことを極端に厭う人もいる。

もちろん世俗に巻き込まれてもいけないが、極度に嫌う姿勢もいかがなものかと思う。現世も修行に生かそうと思えばいかにでも生かすことができる。この世をひどく嫌う態度は、背景に恐怖がある。

 

 

恐怖が背景にあると、真実を理解することはできない。覚醒など以ての外だ。現世に巻き込まれないようにするのは大切だが、恐れて逃げているようでは、せっかくの気づきのチャンスを台無しにしてしまう。世俗に巻き込まれることなく、気づきを得ていくのに、瞬間瞬間を受け入れて楽しむというのは、有効な手段であると思う。少なくとも私にとってはそうである。

 

 

瞬間瞬間を受け入れていくのは、今にあることにもなる。私たちはどうしても過去や未来にとらわれてしまう。そして様々な思考が生起し、苦悩することになる。瞬間瞬間をあるがままに受け止めていくと、思考が過去や未来にさまよいそうになっても、今に戻ることが容易になる。やがては無理に戻ろうとしなくても、勝手に今にあるようになっていく。初めは訓練のようなものだが、続けていけばオートマティックに今に在るようになる。

 

 

ここで受け入れると言ってはいるが、何でもかんでも取り入れてしまうのではなく、手放すものは手放し、受け入れて取り入れるものはそうする。そこは自分の選択となる。その選択もあらかじめ決まっているのだ。という人もいるが、私はその見解をあまりとりたくない。自由意志を超えたものがあるが、自由意志が全くないというのも極論であると思う。まあ全ては決まっているというのも、自由意志があるというのも、どちらにしろその人それぞれがどの見解を取るか決めればいいことだ。

 

 

そしていったんは受け入れるというのは、どのような現象が現れたとしても、それを引きずらないということだ。人間はどうしても「これはいい、あれはやだ」という思考や感情が生起するものだ。生起するのはいい。問題はいい悪いといった思考や感情にいつまでもとらわれていることだ。それはやがて意識の深いところに根付きカルマとなる。思考や感情が生起しても、それにとらわれず早いうちに手放すことができれば、カルマを形成することはない。

 

 

日々是好日という禅の言葉がある。これは毎日良い日が続いて結構なことだ、などという意味ではない。いつも晴れの日ばかりとは限らず、雨の降る日もあれば嵐の日もある。そのことに対して心を動かすことなく、瞬間瞬間を受け入れて全力で生きる。それこそが日々是好日である。

普通は晴れの日は気分が良くて、雨の日は憂鬱だ、となるだろう。しかし晴れていようが雨が降ろうが、この瞬間をあるがままに受け入れていれば、昨日は良かったが今日はダメだ、とならずに日々が良き日となる。これこそが禅の真髄であり、とても深遠な言葉だ。この真の意味合いを理解すれば、色々と思い惑うこともなくなるだろう。

 

 

引き寄せの法則で自分の好きなように引き寄せ、自分の思うがままに生きることは素晴らしいが、瞬間瞬間をあるがままに受け入れそれを楽しみ、日々を全力で生きることもまた素晴らしい。どのような生き方、在り方をするかはその人自身が決めればいいことである。

 

 

そして肝心なことは、思うがままに生きようが、瞬間瞬間を受け入れて楽しもうが、苦しみに没入していてはどちらも実践できない。苦しみや悲しみ、憂や恨みといった思いにとらわれていると、そちらに意識が向かって、思いを現象化することも、瞬間瞬間を受け入れることもできなくなる。最低限自分自身が安定すること。そして可能ならば源泉と繋がること。これによってどのような生き方をも選択できてくるだろう。