抑圧せず見つめて気づく

2019年11月04日 20:40:25

カテゴリー:エッセイ,覚醒

 

今年は台風や大雨が多いですが、外側だけでなく私たちの意識もすごく乱れて、大嵐のようになることもあります。

 

 

これは修行や瞑想をすることで内面の奥深くに入っていき、私たちが普段気づかない、見えないものが見えてきて大きく意識が乱れることがあります。

 

 

誰もが自分の意識が大きく乱れることを経験したくはないですが、そういったことを経験し、乗り越えることで私たちの精神的・霊的な進歩というものがあります。

 

 

スピリチュアルな指導者の中には、そういった自分の内側を見つめていく、意識の大きな乱れを見つめることをあまり言わない人もいます。

 

 

私たちの意識の奥底を見つめていく、色々なことに気づいていく、そうしたプロセスを経ずに真の覚醒に至ることはありません。

 

 

そういったこと自分の意識の乱れに直面し、それを乗り越えていく。そうすることで本当の意味で平安や静寂が訪れます。

 

 

自分の奥底にあるものをを見ない、表面だけ見て安定している人、そういう人の中には自分に自信がある人がいますが、そういう人は単に抑圧しているだけで、押さえつけていたものが表面に出てきたときに非常に乱れてしまう。

 

 

一つの例として、10年ほど前に私が会った人のことを述べます。

 

 

スピリチュアル関連の知人がオフ会を開催し、カフェで何人か集まって話をしました。

 

 

その中に一人の女性がいました。

 

 

その女性は自分の意見に自信があり、それが傍から見てもはっきりとわかるほどでした。かなり自信満々だったことをよく覚えています。

 

 

その女性は自分の意見をハッキリと主張し、それを聞いていた参加者のほとんどの人はその女性の言っていることに感心していました。

 

 

その人がどのようなことを言っていたがあまり覚えていませんが、自分がこうだと思ったことは必ずそうなるとか、そのようなことを言っていたことがあります。

 

 

周りの人はその女性の意見に感心していましたが、私はその人の言っている内容や雰囲気にどことなく違和感がありました。

 

 

結局その人は自信満々でしゃべっていましたが、私から見ると確かにその人の主張はその女性にとっては間違いないことでしょうが、自分自身をきちんと見つめていないような気がしたんですね。そしてまだ何か隠れているものがあるなと。

 

 

だから多くの人がその人に質問をしたり積極的に話していましたが、私はその女性とほとんど話しませんでした。

 

 

そしてオフ会が終了して何か月か経ったのち、オフ会を主宰していた知人に「あの人は今どうしていますか?」と尋ねると「あれから精神が不安定になって引きこもっている」ということでした。

 

 

それを聞いてやはり私が思った通りだったということを確信しました。

 

 

その女性はある面において非常に優れた洞察力や気づきはありましたが、自分自信に潜んでいる闇などは見ていなかった、押さえつけていた、そういうものがしばらくしてから表面に出てきたのでしょう。

 

 

ですから私たちはできるだけ自分の内面を見つめて、あまり抑圧をしすぎないようにする。それが大切です。

 

 

 

自分の中にあるものを見ないようにする、抑圧しているとその時はいいけれども、穢れなどが無くなったわけではなくそのままずっと意識の奥底にあり、ある日それが表に出てきます。

 

 

私も修行を始めて最初の頃は色々なものを抑圧してきました。食欲や怒りやプライドなどを押さえつけて見ないようにしてきたのです。

 

 

例えば瞑想していて、普段は食べないようにしようとしていたものが後から後から出てきました。そして浮かんできた食べ物にずっととらわれてしまいました。

 

 

怒りに関しては、私は怒りを出さずに人に対して慈悲をもって接しようとし、できているなと思っていたんですが、しばらくして何かあるとものすごく怒りが沸き起こってきました。

 

 

プライドも修行が進んできたなと実感したり周りからも指摘されたりすると、どんどんプライドが増上していき私は修行ができている、他の人はできていない、というようになってくる。そうなると周りを見下したり自分はえらいのだと思ってしまいました。

 

 

私は修行や瞑想を始める前は自分に自身がなかったので、卑屈になったりしていましたが、修行や瞑想をして色々と結果がでてくることで

「ああそれだけ私は修行の素質があるんだ」と考えてしまったのです。

 

 

今はそういったものが自分の中にあるということを見ないようにするのではなく、できるだけ見つめて抑圧しないようにして気づていく、そうすると少しずつそこから抜け出していくことができました。

 

 

とはいえ抑圧しないようにと言っても、食欲があるとして何でも好きなだけ食べていいのかと、怒りがあって怒りを周りにどんどん出せばいいのかとそういうわけではありません。

 

 

例えばどんどん食べるとか、怒りを表に出すとかそういうことではなく、自分には食欲があるんだ、怒りがあるのだ、と認識する、気づいていく。

 

 

それらを普通はみな気づいていないので、そうなると食欲や怒りなどが増大してしまう、それを自分の中にあるのだと認めることで暴走することを防げます。

 

 

自分の中に色々なものがあるのだと気づくことで、落ち込んだりせずにただそうであると気づく、

そしてこれをしていくには普段から意識を内側に向けるということを訓練する必要があります。

 

 

できるだけ普段からそれを心がけて取り組んでいただきたいと思います。



真理に目覚めるには表面だけでなく深い領域まで理解すること

2019年10月16日 07:04:39

カテゴリー:エッセイ,覚醒

宗教やスピリチュアルなことを実践することは、色々と気をつけなければならないことがあることについて書きます。

 

 

今の日本ではスピリチュアルな指導者や団体は、良いことばかり言って、これだけ良い状態になるとか、あなたはもう大丈夫だとか、そういうことばかり語り、気をつけなければならないことについて説明が不足しているように思えます。

 

 

私は何年か前から、海や山に行って自然と一体になるスポーツをよくやっています。

 

 

そういったものは都会で行うスポーツやレクレーションと違い、心身が非常に浄化されるようなそういった効果があります。

正しくない形での修行や瞑想をするより、余程海や山に行った方が自分の精神性、霊性の向上、覚醒にとって良いような気がします。

 

 

しかし海や山に行き、自然と一体化するのは楽しいし素晴らしいことですが、同時に危険性もあります。

ですから事前にインストラクターから、危険性もありますから気をつけてくださいといった説明があり、スポーツをしている時も危ないことがないようにインストラクターがずっとついています。

 

 

実際私は海で流されて、このままでは死んでしまうのではないかということが数年前にあり、今年の夏も熱中症で具合が悪くなることがありました。

それゆえ海や山では怪我をしたり、場合によっては死んでしまうようなことがあるので、細心の注意が必要です。

 

 

しかし最近日本においてはスピリチュアルな実践において、このようなことを気を付けた方がいい、といった説明が十分になされていないように思えます。

例えば海や山に行って海で岸辺では安全ですが、沖の方に行けば普段経験できないようなことが経験できますが、それだけ危険性も増します。

 

 

私はダイビングはやっていませんが、海の深くに潜っていけばいくほど普段見られないようなものも見れますが、それだけ危険性も増大します。

山でもふもとでは楽ですが、頂上に向かっていくと非常に良い眺めになりますが、やはりそれだけ危険にもなります。

 

 

瞑想もこれと同じことが言えます。

 

 

瞑想は意識の深くまで潜っていくことでもあります。

山や森の奥深くに行くのと同じです。

 

 

修行や瞑想をしていき、意識が深い領域に至ると、素晴らしい経験をすることもあれば、見たくもないものが浮上して大変な目に会うこともある。

ほとんどの人達は表層意識にしか気づかず、より深い無意識、潜在意識といったものを理解していません。

 

 

表層意識では良いことを考えていたり、怒りなどあまりないという人がいるとしましょう。

 

 

ところがそういう人が瞑想をして、普段気づかなかったものがでてくると。そうすると普段認識していなかった怒りが生じるということがあります。

 

 

私が何年か前に参加した瞑想リトリートでもそういう人がいました。

 

 

瞑想の指導者が参加者の一人一人に瞑想はどうですか?とインタビューをした時に、私は普段怒りがないと言っていた人がいました。

 

 

ところが私から見ると、その人が怒りが無いということはありえず、怒りを内在させているのが明白でした。

 

 

それはなぜわかるかというと、その人の表情、話し方、行動、エネルギー状態でわかります。本人は気づいていなくても、そういうところに滲み出てきます。

 

 

インストラクターの人もその点を指摘しました。あなたは怒りが無いと言っているが、そのようなことはない、ただ抑圧していて気づいてないだけだと。

それを言われた人は、それを聞いて理解できないようで、表情に怒りが滲みでていました。

 

 

その人は怒りがないのではなく、単に気づいておらず抑圧しているだけでした。

 

 

瞑想をずっとやっているとそういうものが出てきます。

 

 

怒りが無いと言っていた人は、その時は理解できなかったですが、後で気づいたようでインストラクターの人に「指摘していただきありがとうございました」と感謝していましたが。

これは特別なことではなくて、多くの人が深層意識を理解していません。

 

 

表層意識だけで遊んでいるようでは、真の瞑想にはならず覚醒することもないでしょう。

 

 

人の内面は非常に素晴らしいものがあると同時に、ひどく醜い目を背けたくなるようなもの、どちらもあるんですね。

 

 

物事をありのままに見る明晰な意識とか、慈愛とかそのような素晴らしいものがあると共に、怒りや憎しみ、悲しみ憂いといったものが同時に存在している。

 

 

これは仏典でも、人間界は苦しみと喜びどちらもあると書いてあります。

 

 

地獄は苦しみしかなく、天界は喜びしかないともあります。

 

 

人間界は苦しみと喜びどちらもあるから、悟りやすいとされています。

 

 

私たちが瞑想を深めていくと、苦しみと喜びどちらもハッキリと出てきます。

精神的・霊的な学び実践を深めていくと、色々と汚れが出てくる。そのことを理解していないと、実践している人はパニックに陥ったり、闇に飲み込まれたりといったことにもなりかねません。

 

 

だからきちんとした指導者は、そのような気をつけなければいけない点をしっかりと説明します。

 

 

そういうことを説明しない指導者は、一つにはそういうことを言うと人が集まらずビジネスにならないから言わない。

もう一つは汚れが出てきて大変な状態の時、どうすればいいかわからないので言えない。

 

 

だから私は綺麗事しか言わない指導者は信頼できません。

そこは皆さんも気をつけていただきたく思います。

 

 

ただし汚れが出て大変だとか、そういうことばかり言う人、そればかり強調する人もどうかと思います。

 

 

あなたはこのままだと地獄に落ちる、などと言って信者を恐怖で縛り付ける指導者もいます。

人を恐怖で縛り付けるというのも問題ですから気をつけましょう。

 

 

では修行や瞑想をしていて、素晴らしい体験をすればいいのかと言うと、そこにも落とし穴があります。

 

 

例えば瞑想を深めていき、至福に満たされたり、色や光を見たり、「自分はこれだけの体験をしたから、修行が進んでいるんだ」となったりしてしまう人もいます。

これも修行上の大きな落とし穴です。これも指導者はきちんと説明したり対処する必要があります。

 

 

そういった至福に満たされたり、色々な体験をしたり、力がついてきたり、それらも途上ですからとらわないようにすることが大切です。

それらにとらわれて非常にプライドが増大したり、悟ったと勘違いすることもあり、それは一種の魔境ですから注意が必要です。

 

 

スピリチュアルな実践をすることは素晴らしいことも多いですが、同時に危険性もあります。そのことをきちんと理解しておきましょう。

 

 

また修行をするととにかく苦しい。でも苦しんで苦しんで、その先に解脱悟りがあるのだ、というのも違います。

逆に喜びだけがあるというのも違います。これらのことをよく理解していただきたいと思います。

 

 

そして修行や瞑想を深めていくと、肉体や表層意識が私だというのが違うということがわかってきます。

 

 

普段「これが私だ」という偽りの私に強くとらわれていると、真実の私に気づいていくプロセスで、そのギャップに苦しむこともあります。

 

 

そのことが理解できないと恐怖がでてきて、そのまま進めばより目覚めていくはずだったのに引き返してしまったり、ギャップに耐えかねておかしくなってしまうこともあります。

このように真理に目覚めていくことは、本来非常に素晴らしいことですが、偽りの自分や幻想、マーヤ―にとらわれが強すぎると、真実を知ることがとてもきついことになります。

 

 

こういったことも私たちはしっかりと理解しておく必要があるし、指導者はそういったことにきちんと対処できないといけません。

 

 

危険性を強調してきましたが、それを気にし過ぎるのも良くありません。

素晴らしい点も危険性もどちらも理解して、できるだけ冷静であって頂きたいと思います。



意識を鮮明にしてただ在る

2019年09月18日 07:07:30

カテゴリー:エッセイ,覚醒

何のために修行しているのか、精神世界やスピリチュアルなことを学び実践するのか、人それぞれの動機があると思います。こうしなければならないということはありませんが、私の場合は色々な幻想、マーヤというのがありますが、そこから目覚めると、そこから脱却するということを目指しています。
 
 
中には色々な力を得たい、シッディ(超能力、神通力)を得たいという人も世の中にはいます。あるいはシッディよりももっと現実的な能力を開発するであるとか、仕事が上手くいくとか、より良い生活をするとか、そういうことを目的とする人もいるでしょう。
 
 
もちろんそういうことを目指すのは悪いことではありません。しかし現実的な能力であるとか、ビジネスが上手くいくとか、この世をより良く生きるとか、あるいはシッディであるとか、そういうことは全て幻想です。
 
 
そしてそういったものも全ていつかは消え去ってしまう、壊れてしまいます。ですからどういうことを目指すかは自由ですが、もしもシッディとか現実的なことよりも、それらを超越したものを目指すならば、それは素晴らしいことです。
 
 
そういった幻想  マーヤというものを超えていく、迷妄から目覚めていく、それは色々な教えがあり、さまざまな言い方があります。
 
 
ヒンドゥー教では真我、アートマンと言ったり、仏教では仏性と言ったり、色々な言い方があります。
 
 
この真我の状態というのはどういうものでしょうか?これも色々な見解、表現がありますが、例えば純粋観照者、純粋にただ見ているそういう表現もあります。
 
 
それと似たようなものですが、純粋に気づいている状態という見解もあります。
 
 
あるいは見ることすらしていない、ただ存在している、ただ在るという状態と。
 
 
このただ純粋に見ている、ただ気づいている状態というのは、普通私たちはなにかを見る時に、自分の観念であるとか、色々な思いというものをのせて見てしまいますが、そういうものを付加することなく純粋に見る。
 
 
ですからなかなか難しいですが、物事を見る時できるだけ自分の思いであるとか、色々な観念であるとか、そういうものを乗せずに見る訓練を普段からする。
 
 
それと大切なことが、そのようにただ見ている上で大切なこととして、意識がどんよりと濁った状態ではなく、意識が鮮明、クリアな状態であるということです。
 
 
例えばある種類の修行や瞑想をしていくと、意識が高揚すると言いますか、エネルギーが高まって興奮状態になったり、意識が混沌とした状態になる場合もあります。
 
 
これは経験がある人もいるかもしれませんが、意識の奥底へ深く入っていくとボーっとしたり、意識が混沌としたりなど、そういう状態になったりします。
 
 
最初の段階ではそれでいいですが、その混沌とした状態で終わってしまってはいけません。そのボーっとした混沌とした状態を抜け出すと、意識がクリアで非常に鮮明な状態になっていきます。そこに至らなければ意味がありません。
 
 
これは自明のことですが、意識が混沌とした状態だと物事をあるがままに見ることが難しくなります。
 
 
意識が鮮明な状態であれば物事をできるだけ正確に、あるがままに見ることができるようになってきます。
 
 
意識を鮮明にしておく、クリアにしておくというのは簡単ではないですが、修行や瞑想をして混沌とした状態でいてはダメだと理解しておくだけでも違います。
 
 
ではただ在る、ただ存在するということについてですが、色々と目覚めた人達の中には余計なことをせずただ在なさいということを言う人達がいます。
 
 
特に現代社会というものは何かをするということが非常に大事、何もしないことが悪いというイメージがついています。
 
 
私達が何かをすることで色々なカルマを形成することにもなります。真我の本来の存在はただ存在する、在るだけです。だから私達も余計なことをせずただ在ることを心がけていれば、その状態に戻っていけるようになるでしょう。
 
 
何もせずただ在るということが段々根付いてくると、本当に自分はそれでOKなんだというようになってきます。
 
 
ただそれは普段の日常生活において、仕事をしていたり誰かと接していたり、日頃の雑用などをやっていると、そういうことを理解したり気づくことは難しいです。
 
 
ですからできるだけ1人で静かにしていられる時間と場所を作って、そういう過ごし方をする習慣を設けるようにすることが大切です。
 
 
私の場合一人暮らしなもので、自分一人で過ごせる時間と場所を作りやすいです。だからできるだけ一人で静かに過ごせる時間を設けるようにしています。
 
 
ただ家族などがいて、なかなかそうもいかないという人もいるでしょう。そういう方たちもできるだけ工夫して、毎日は難しくても、何日かはそういう過ごし方をするように心がけていただきたく思います。
 
 
その時は座って瞑想できればそれは理想的ですが、それが全てではないです。横になって寛いでもいいです。
 
 
ただし横になると寝てしまいやすいので、座っての方がいいとされます。横になって寝ずに寛いでいることができればそれでも構いません。
 
 
ヨーガでシャヴァアーサナ(寛ぎのポーズ)がありますが、アーサナやプラーナーヤーマをやって、シャヴァアーサナをとる。そして寝ることなくくつろげればとても良いです。
 
 
そしてこの何もせずただ在る、ということが最初のうちは非常に無駄なことではないかとか、何かしなきゃならないのではないか、というマインドの思いが色々と湧いてくるかもしれません。
 
 
何もせずただ在る、ただ存在していることが理解できるようになったら「ああ、これこそが本来は全てである」ということが段々わかってきます。
 
 
ただこの何もせずただ在るということは、理解することがなかなか難しい。
 
 
それは修行をしていない人は当然ですが、修行や瞑想をしていてもわからない人もいます。
 
 
私がインターネットで、何もせずただ在る、ということを書いた時に、そのことを批判してきた人がいます。
 
 
そんなことをしていても何にもならない、ということを言ってきた人がいました。
 
 
そういう人達は修行や瞑想をしていて、自分達が何か特別なものになるとか、何か別のものになるとか、そういう思いがあります。
 
 
ただ本来は修行や瞑想を行うことで、何か別のものになるのではなく、本来の自分に戻っていくことをしています。
 
 
余分なことをしないでいたら、本来の自分に戻っていくので、何もせずただ在ることが理想です。
 
 
ではただずーっとボケーとしていればいいのか?というとそう簡単な話ではありません。
 
 
純粋に見る、純粋に観照する、気づきというものがないと、ただ単にボーっとしているだけでは、混沌とした状態で終わってしまいます。
 
 
だから鮮明な意識を、気づきを保った状態で、何もせずただ在るであればベストです。
 
 
このことをまず知識としていれておき、それを少しずつ実践して本当の意味で体得していきましょう。
 
 
あと何もせずただ在ると言っても、仕事もせず何もしないとかそういうことではありません。しなければいけないことはきちんとしましょう。
 
 
今回の内容はシンプルな内容です。しかしこれを本当の意味で理解するとか、本当の意味で実践するとか、それはなかなか難しい。
 
 
 
私達が何かをする、そうしなければいけないということを植え付けられているので、何もせずにいることが難しくなっています。
 
 
この内容は私達が迷妄や幻想、マーヤから離れていくためにどうすればいいかということについてです。
 
 
それはこれが唯一絶対ではありません。みなさんに合うものがあればそれをすればいいのです。
 
 
人というものは自分がこれをやって結果が出た、だから他の人に伝えようとしますが、それは私にとっては良くても皆さんには合わないかもしれませんよね。
 
 
一番大事なことは、言われたことをただやることよりも、本当に自分に合ったものをやっていくことです。


恩寵の瞑想会

2017年03月23日 11:16:56

カテゴリー:瞑想会

恩寵とは何でしょうか?辞書によると

 

1 神や主君から受ける恵み。慈しみ。

2 キリスト教で、人類に対する神の恵み。

とあります。

 

そしてフーマンは「本当の自己を思い起こす助けを得ること」が恩寵であると言っています。

 

瞑想会では本当の自己を思い起こしていくことをシェアしていきます。それは瞑想をリードする人が恩寵を与えるのではなく、自分自身が恩寵を受け取るのです。

恩寵は様々な形をとって現れます。瞑想会でも身体技法、精妙なる音、エネルギーワーク、瞑想などいくつもの手段を用いて、恩寵を受け取ることをしていきます。

 

 

瞑想では意識を明晰にして気づきを深め、くつろいで本来の自分に溶け込み、男性原理と女性原理の統合をしていき、ハートを開き活性化させ、恩寵の扉を開いていきます。そしてこれらが全て一つであることを最後に瞑想していきます。

 

 

恩寵を受け取ることで、ある人は魂の覚醒へと至る道を歩み、ある人は自分の本来持っている能力が目覚めてくるかもしれません。大いなる平安、安心に満たされる人もいるでしょう。恩寵はその人に最善の現れ方をします。それを瞑想会で少しでも体得していっていただければ幸いです。

 

 

◎日時  4月8日(土) 14時~17時  
 

◎料金  3000円

 

◎場所  埼玉県  申し込みをされた方に、具体的な場所をお知らせします。

 

参加希望される方はメールフォームよりご連絡お願いします。



精妙な波動とエネルギーワークによる瞑想会

2017年02月08日 21:30:28

カテゴリー:瞑想会

昨年は交通事故以来瞑想会を開催していませんでしたが、体も癒えてきたので瞑想会を再開いたします。

 

 

現代人は体はこわばり緊張し、精神も多くのものを抱え込み、静かに座って瞑想することが難しくなっています。いきなり静かに内面を見つめようとしても、それは非常に困難です。静かに座る前に心身の状態を整えておく必要があります。そのために多くの技法がありますが、この瞑想会では音を用います。精妙な音を聞いているだけで、心身が浄化され調整されていきます。主にシンギングボウルの音を聞き、感じていただきます。それだけで瞑想の準備が整います。

 

 

間近で聞くシンギングボウルの音色は繊細かつパワフルで、身体を浄化し、エネルギーを整えかつ強め、意識を鮮明にしてくれます。それに加えて最新のスピーカーを用いて、より立体的な音の場を形成します。古からの叡智と、最新のテクノロジーが融合した音と波動の空間にいるだけで、大きな癒しの効果と瞑想が自動的に起こります。

 

 

瞑想会では精妙な波動を用いますが、それには音のように五感で知覚するものと、五感では知覚できないより精妙なものがあります。瞑想会ではどちらも体験していただき、瞑想の手助けとします。

 

 

そして音だけでなくエネルギーワークも用いて、瞑想の準備をしていきます。私たちはエネルギーにも左右されていますが、それを整えることで容易に瞑想に入っていくことができます。

 

 

瞑想の準備が整ったら、静かに座っていきます。気づきを明確にし、存在そのものにくつろぎ、ハートを開き恩寵を受け取っていきます。これらを段階を踏んで進めていきます。恩寵は常にここにありますが、私たちの側が閉じていて、恩寵を受け取ることができなくなっています。この瞑想会では、恩寵を受け取るきっかけとなることを目指します。恩寵とは何か?それは言葉で説明できるものではありませんが、あえて言うならばこの世を超えたより微細な次元からのものです。

 

 

それを光として体験する人もいるでしょうし、エネルギーを感じる人もいるかもしれません。体験は千差万別ですが、大元は一つです。恩寵を受け取る鍵はハートにあります。瞑想会ではハート瞑想を行いますが、それでは十分ではありません。その背景に気づきとくつろぎがあります。まずは気づきを明確にし、それから心身をくつろがせ、男性原理と女性原理を統合させていきます。気づきがなくハートが開くと、方向性を見失います。そしてくつろぎリラックスすることで、広がりと深みが生じ、ハートが開いていく準備ができます。それからハート瞑想に取り組むことで、恩寵を受け取ることができてきます。

 

 

瞑想初心者の方でも、安心して参加していただけます。瞑想に慣れた方は、普段とまた違った広がりや深みを体験できるかもしれません。覚醒者の中には、「恩寵の働きがないと、覚醒は生じない」という人もいます。恩寵は魂の目覚め、覚醒において非常に重要なポイントです。そして魂の目覚めや覚醒に関心がない方でも、恩寵の働きによって、この世の苦しみを軽減させ、できるだけ楽に生きていくことが可能となるでしょう。

 

 

瞑想会では私がリードする形をとりますが、「教える側」「教わる側」というものではなく、そこに集う人たちによって恩寵が起こり、それを分かち合う場となります。上下関係はなく、そこにいる人たちが同じ立場で恩寵を分かち合います。そのことを五感を超えた、より微細なもので感じ取ってみてください。

 

 

最近では私自身の瞑想も深まり、今までよりも更に深みのあるものをシェアできると思います。どのようなものとなるか、私自身楽しみです。

 

 

◎日時  2月26日(日) 14時~17時  
 

 

◎料金  3000円

 

 

◎場所  埼玉県  申し込みをされた方に、具体的な場所をお知らせします。

 
 

参加希望される方は、お申込み・お問い合わせから連絡お願いします。