アセンションについて ~一人一人が目覚めていくこと~

2020年03月02日 09:55:59

カテゴリー:エッセイ,覚醒

近頃スピリチュアル業界で、アセンションということがまたよく言われるようになりましたね。

 

 

何年か前にもアセンションが流行りまして、いったん下火になっていましたが、最近またアセンションのついて語ったり、書いたりする人がでてきました。

 

 

アセンションでは地球の波動が上がっていき、集団で目覚め、覚醒が起きてくるというものだと、そういうことを言っていると私は思います。

 

 

このアセンションには、色々と元ネタがあります。

 

 

まずマヤ歴というものがありまして、2013年でマヤ歴が終わり、そこで大きな変化、大変動が起こると言われてきました。

 

 

それと結び付けて、この頃にアセンションが起きて、人類全体が変化する、目覚めるという話がでてきたのではないかと思います。

 

 

他にも元ネタと思われるものがありまして、キリスト教であまり知られていない教えだと思いますが、英語ではラプチャー、日本語では空中携挙というものがあります。

 

 

これはどういうことかというと、イエス・キリストが磔になって亡くなられましたが、そこから復活する、蘇るとされていますが、そのときに信者たちが空中でイエス・キリストと会う、遭遇するということらしいです。

 

 

空中で会うということは、イエス・キリストは粗雑な肉体ではなく、空中でイエスと会う人々も、粗雑な肉体ではなく、エネルギー体といいますか、別のボディでありましょう。

アセンションでもそういうことが言われていたと思います。

 

 

この粗雑な肉体ではなく、別の身体を持って引きあがる、覚醒するのだということです。

 

 

ということで、このラプチャー、空中携挙もアセンションの元ネタの一つかと思われます。

 

 

他にもあるかもしれませんが、アセンションは色々な宗教、スピリチュアルの考え方、概念が盛り込まれている、組み合わさっているのではないかと。

 

 

何年か前にフォトンベルトというものもありましたね。最近は全く聞きませんが。

 

 

私も詳細は忘れてしまいましたが、フォトンベルトというものが宇宙で生じて、地球がフォトンベルトの中に入ると、地球の波動が変わる、地球が変化するとされ、それとアセンションが結びついて説かれてきた、一つのムーブメントを起こしてきたと思われます。

 

 

そして私自身はアセンションに対してどのような考え方でいるかというと、どちらかというと否定的といいますか、半ばどうでもいいと。

 

 

アセンションが起こると、それに伴って目覚める側と、取り残される側と二極化すると言われていまして、そもそもこの二極化というものが、私たちが真に目覚めていく、覚醒していくことと真逆の方向です。

 

 

非二元、ノンデュアリティということも、最近スピリチュアルでよく言われていますが、アセンションをする側とできない側、これは完全に二元です。

 

 

私はラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジといった真に覚醒した、本当に非二元を理解されている方々の教えに感銘を受けておりますので、アセンションで二元の状態になるというのは、肯定はできないという立場です。

 

 

アセンションを信じる方は、それはそれでいいと思いますが、果たしてそれで本当に目覚めていって、次元上昇の流れに乗っていけるかというと、私は疑問です。

 

 

 

最近では2020年にゲートが開き、2021年だかにそれが閉じてしまう、そしてゲートが開いている時はアセンションのチャンスだよ、それに乗り遅れないようにしましょうね、というようなことを言っている人がいるようですね。
 
 
 
このゲートが開くというのは、私にはよくわかりませんが、おそらくゲートが開くことでエネルギーが降り注がれるのだろうと、そして目覚めていないとエネルギーの恩恵が受けられないよ、ということではないかと推測します。
 
 
それを主張している人たちは違う見解かもしれませんが、私がその話を聞いて受けた印象はそのようなものです。
 
 
ここで、ゲートが開くよ、チャンスだよ、でも閉じちゃうとチャンスに乗り遅れるよ、だから今のうちにしっかりと覚悟を決めて目覚めましょうよ、ということを言って、これは人々のマインドに働きかける、なかなか上手いビジネスモデルかなと思います。
 
 
マインドは競争とか、他よりも優位に立つことが大好きですから、一般的なビジネスでは、そういったマインドを刺激して発展させていきますが、スピリチュアルでもそのようなことがまかり通っていますね。
 
 
そしてスピリチュアルの世界でビジネスを展開することは、私は別にいいと思いますが、ただ目覚めや覚醒というものをビジネスと絡めていくのはどうなのかなと思います。
 
 
真に目覚めていくと、ビジネスというものにあまりこだわならくなる、段々そちらに意識が向かわなくなってきます。本来真の覚醒とビジネスは相容れないです。
 
 
引き寄せの法則とか、占いなどでビジネスを展開するのは、やりたい方はやっていかれればいいと思いますが、目覚めや覚醒、悟りや非二元であるとか、そういったものでビジネスを展開するのは、元々成り立たないだろうと私は思うのですけれどもね。
 
 
では、これから本当にアセンションが起こるのかといいますと、私の個人的な見解としては、それは起こらないだろうと思っています。それはなぜかといいますと、今までよく何年にこういうことが起こる、何年にこうなると言われ続けてきましたが、そのようになったことがないです。
 
 
 
有名なのが1999年のノストラダムスの大予言で、人類滅亡とまで言われました。これは当時地上波で放映されたくらいで、私はそのときに小学生でしたが本気で心配して、「1999年に人類が滅亡してしまうのか?!これは大変だ、どうしよう?」と不安だったのですが、結局1999年に人類滅亡とはなりませんでした。
 
 
そして2013年にマヤ歴が終わって、「さあ、これでアセンションだ!」という人たちもいましたが、これといって目立ったこともなかった。
 
 
そしてそういう人たちの中には「いや、アセンションは実は起こっているんだ」というようなことを言う人たちもいますが、これは単に言い訳に過ぎないなという印象です。
 
 
フォトンベルトがどうだこうだと言っても、特にアセンションらしきことは起こっていませんね。
 
 
またゲイリーボーネルという人がいて、アーカシックレコードを読み取るとのことですが、「光の17日間」というものが起きて大きな変化が起こると主張していましたが、ゲイリーボーネルが言っていた時期に、特に大きな霊的、スピリチュアルな変動は起こりませんでした。
 
 
確かゲイリーボーネルは、アーカシックレコードを読み違えた、年月や日付がずれていた、というようなことを言っていたような記憶がありますが、実際にアーカシックレコードを正確に読み取るのはなかなか難しいと思いますが、それでも言い訳に過ぎないと思います。
 
 
そして今回2020年にゲートが開いて、2021年に閉じると言われていますが、何年にこういうことが起こったためしがないので、今回もそうだろうと思います。
 
 
もしもそのときに本当にゲートが開いて、大いにエネルギーが降り注いで、アセンションが起きたとしたら。それはそれで素晴らしいことです。実際に起こる確率は低いと思いますが。
 
 
 
そしてアセンションが起きようが起こるまいが、どちらでもいいですね。
 
 
アセンションが起こるとしても、一番肝心なことは自分自身が目覚めていくということです。
 
 
仮に大きなエネルギーの変動が起きて、人々が覚醒しやすくなったとしても、自分自身が目覚めていくその準備ができていなければその流れに乗ることはできないので、結局私たち一人一人が真に目覚めていくことが大事であって、そのためには「アセンションに乗り遅れないようにしなきゃ!」
といった思考でいればいるほど、目覚めから遠ざかります。
 
 
 
アセンションが起こる、ゲートが開くなど外側のことに煩わされることなく、自分自身をしっかりと見つめ、色々な幻想や迷妄から目覚めていくことが大切です。
 
 
私はアセンションというものが幻想、ヒンドゥー教でいうマーヤーだと思っていますが、そういったものから目覚めていくことが一番肝心なことだと思います。
 
 
そして集団で覚醒だなどと言われていますが、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ、その他真に覚醒したとされる賢者、覚者の方々は、集団での覚醒ということについて、私の知る限り言及されていません。
 
 
集団的な覚醒を期待するより、まずは私たち一人一人が自分自身を見つめ、内省し、迷妄から目覚めることを目指していきませんか?というのが私の見解です。
 
 
「いや、私はアセンションがあると思うし、その流れに乗るんだ」という人は、それはそれでいいと思います。
 
 
どのようにしていくかは私たち次第、その人次第です。
 
 
 
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本当の自分を知る瞑想会

2020年02月14日 07:22:19

カテゴリー:瞑想会,覚醒

昨今は企業も瞑想を取り入れて、成果も出ているとのことです。それゆえか瞑想に関心を持つ人も増えつつあるようです。

 

 

企業で行われている瞑想は、仕事の能率を上げたり、能力を開発したり、ストレス解消として行われているようです。何かを得るためにですね。

 

 

ですが本来の瞑想は何かを得るためのものではなく、余計なものを落としていき、本当の自分に気づいていくものです。

 

 

仕事の効率を上げたり、能力を開発したり、ストレス解消ならば、他にも良い手段はいくらでもあるでしょう。

 

 

しかし本当の自分を知るには、巷に色々とあるメソッドの中でも、瞑想が非常に優れたものです。

 

 

私たちは肉体やマインドを自分だと錯覚しています。偽りの自分を「これが自分なんだ」と思いこんでいることから色々と迷いが生じ、ますます自分自身を見失っていき、生きる方向性がずれていきます。

 

 

瞑想会では余計なことをせず、シンプルに「自分は誰か?何か?」ということを探っていきます。

 

 

一回や二回瞑想するだけで、本当の自分に気づくことは難しいですが、瞑想によって自分を知るきっかけが生じれば、そこから瞑想に取り組みやすくなります。

 

 

瞑想会ではまず身体をほぐし、シンギングボウルによる繊細な音、波動の助けを借りて瞑想しやすい状態を形成してから瞑想を深めていき、最後には自分を知るためのシンプルな瞑想をいくつか行っていきます。

 

 

迷妄から目覚め本当の自分を知りたい方、迷いから抜け出したい方、とにかく瞑想を行いたい方など、どうぞお越しください。

 

 

◎  日時   3月7日(土)   14時30分~16時30分

 

 

◎  費用   3千円 

 

 

◎  場所   埼玉県朝霞市(申し込みされた方に、具体的な場所をお知らせします)

 

 

◎   定員   5名

 

 

ゆったりとした座りやすい楽な服装でお越しいただくか、ご用意をお願いします。できるだけ空腹状態でお越しください。

瞑想してみたいけど、今回は日程が合わない、遠くて行けないなどという方は、瞑想の個人レッスンも承ります。

 

 

直接でもオンラインでも可能です。

 

 

参加希望される方、瞑想個人レッスンのお問い合わせなどは、トップページの申し込み・お問い合わせよりご連絡ください。



フィクションから解放される

2020年01月14日 18:20:27

カテゴリー:エッセイ,覚醒

多くの人たちが、お金があれば幸せになるとか、学歴が高ければいい仕事につけて幸せになれるとか、などの観念にとらわれています。

 

 

以前と比べるとお金があれば幸せである、といったことに疑問を持つ人も増えていますが、まだお金や物質に恵まれていることで幸せと感じる人が多いです。

 

 

いかにお金があったり、地位や名誉や権力があったとしても、大きな失敗などでそれが崩れてしまったり、そもそもお金があっても内面が満たされない人も多くいます。

 

 

昨年沢尻エリカがドラッグを所有して逮捕されたことは、いまだ記憶に新しいですが、沢尻エリカは美貌と演技力を兼ね備え女優としての評価も高く、仕事の依頼も常にありました。

 

 

彼女は人も羨むような状態にありましたが、ドラッグで逮捕され、今まで築きあげてきたものを一気に崩してしまいました。

 

 

ドラッグをやってしまうのは、何か満たされないものがあったのではないかと思われます。果たして彼女が幸福だったのか?それも疑問に思えます。

 

 

いかに見た目が良くて、お金も地位も名誉も権力もあったとしても、人々から賞賛されていたとしても、それが幸福に結びつくかというとそうとも言い切れないですね。

 

 

外的なことが充実していても、それが絶対的に幸福になるわけでもなく、それも一種の幻想、フィクションですが、まだ多くの人がそのフィクションを信じています。

 

 

そしてそういった物質的、外的なことだけでなく人々は色々な思想、イデオロギーにとらわれており、それが絶対であるとか、絶対でなくてもそれを信じ込んでいる人が非常に多いです。

 

 

今世界中で一番広まっているイデオロギーは資本主義です。

 

 

そして今は衰退してしまいましたが、かつては共産主義という非常に大きなイデオロギーがあって、それを信じている人が多くいました。

 

 

かつては共産主義というイデオロギーが人々を幸福に導くと、これが最高のイデオロギーだと思う人がたくさんいましたが、それが多くの国で崩壊しました。

 

 

そして今では資本主義にほとんどの国が支配されていますが、この資本主義も色々と問題があると指摘されてもいます。

 

 

資本主義によってどんどん経済的格差が生じてきています。

 

 

結局共産主義も資本主義もフィクションであり、それらを信じるだけでは本当の幸福に結びつきません。

 

 

宗教や精神世界・スピリチュアルに関心のない人のことについて述べてきましたが、そういったものに関心がある人たちはフィクションにとらわれていないかというと、全くそんなことはなく強くとらわれています。

 

 

キリスト教やユダヤ教では唯一絶対の神がいて、その神を信じることで救われるという、これも一種のフィクションといいますか、ストーリーですね。

宗教というものは、神やそのような存在を信じたり、それを礼拝したり拝むことで救われていくというストーリーを持っているところが多いです。これも一つのストーリーであるのですが。

 

 

そういったフィクションやストーリーを信じることで救われた人もいるかもしれませんが、そういうことを信じられなくなった人が、現代社会では増えています。

 

 

私はイエス・キリスト個人はは好きですし、間違いなく聖者だと思いますが、今のキリスト教は、果たしてイエス・キリストの教えを正確に伝えているか疑問です。

 

 

宗教を強く信じる人がまだ多くいる一方、宗教を信じられなくなったり、救われない人も多くいます。

もはやフィクションとしての宗教だけでは限界が生じてきていると思えます。

 

 

現代においては科学が発達したことで、例えば聖書や仏典の一部の内容について、科学的見地では全然違っているということがでてきました。

 

 

仏典でも世界はこうなっている、という記載がある経典があります。

世界の中心にスメール山という高い山があり、その周りを四つの大陸が囲んでいて、周りが海となっています。

 

 

ところが仏典にある世界と、科学的に観測された世界は違います。

 

 

現在のダライラマ法王は科学的考え方をされる方で、仏典では世界はこうであるとなっていても、科学的観点だとそれは違うから、経典をすべて妄信するのはよくないと語っています。

 

 

宗教において、現代科学では否定されるようなことを信じる人がいますが、実際にはフィクションであって、それをずっと信じ込む、とらわれ続けることは良いことなのか疑問です。

 

 

仏教は宗教のカテゴリーに属すると一般的には言われますが、元々釈迦牟尼が説かれた教えは、色々なフィクション、ストーリーから脱却する、そういった教えであり考え方です。

 

 

仏教も後には色々な考え方がでてきて、例えばマントラ、真言を唱え続けることで救われるとか、神仏をイメージしてそれと合一するなどというものもでてきましたが、元来釈迦牟尼の教えにはそういったものはありませんでした。

 

 

仏教の瞑想には二つのやり方があり、一つはサマタであり、もう一つはヴィパッサナーです。簡単にいうとサマタは心を止めて、ヴィパッサナーはその状態で観察をします。

ヴィパッサナーで何を観察するかというと、自分の思考や感情や観念などを、フィクションを交えずに、冷静にあるがままに観ていきます。

 

 

ですから神や仏など対象を拝む、信仰することで救われるなど、初期の仏教ではそういうことは説かれませんでした。

 

 

後の仏教でも禅やチベット密教でもゾクチェンは、ただ見る、ただ在るということをするようですね。

 

 

チベット密教で、ゾクチェンを行ずる前にマンダラ供養を行ったり、グルヨーガやイメージを用いた瞑想をするようですが、最終的にはそういったものを一切行わなくなると。

 

 

人類は様々なフィクションを作り出し、それらを信じることで発展してきた歴史があります。

 

 

例えば神がいてそれを信じることで救われるというストーリーで、多くの人たちが集い、その考えのもとに団結して集団を形成することで大きな力を持ち発展したということもあります。

 

 

資本主義や共産主義などのイデオロギーに多くの人々が集い、大きな勢力を作り上げました。

 

 

ですがそういったフィクションが少しずつ崩れ始めています。

 

 

ですからフィクションによって人類が発展したという側面はありますが、ずっとそれにとらわれている、しがみついているだけでは限界でしょう。

 

 

そして覚醒や悟りというものは、そのようなフィクションから解放されていくことではないかと、そのような言い方もできるのではないかと、今私は思っています。

 

 

ただ、私たちがこの現実社会を生きていく上で、完全にストーリーやフィクションをなくせるかというと、それは難しいというかほぼ不可能でしょう。

生きていく以上、物質やお金は必要だし、科学も否定はできないし、完全なる否定はまだできません。

 

 

しかし物質的なものが満たされれば幸福だとか、資本主義や共産主義が絶対だとか、そうではなくそれらはフィクションなんだということを理解しておくのは大切なことではないかと思います。

 

 

宗教的実践において、神や仏を想定してそれを信じる、礼拝することで救われるという人は、それはそれでいいと思います。

 

 

ただ初期の仏教や禅のように、一切の虚構、フィクション、ストーリーから抜け出し解放されていくというやり方もあります。どの道を行くかは一人一人が自分で決めていけばいいことです。



気づきがあることで目覚めていく

2019年12月04日 21:54:15

カテゴリー:エッセイ,覚醒

瞑想中は「起こることがただ起こっている」「本来の自分はエゴや自我ではなく、存在そのものである」
 
 
といったことがごく当たり前、自然なことですが、日常においてはそれを保つのが難しく、どこかへ行ってしまうのはしょっちゅうです。
 
 
 
ラメッシも覚者が思考や感情が沸き起こることはあると述べています。
 
 
 
覚者と一般人の違いは、覚者は思考や感情が沸き起こっても、それに巻き込まれない。すぐに「ただそれである」に戻る。一般人は思考や感情が生じて、それに巻き込まれっぱなしです。
 
 
 
モヤモヤや憂鬱になるのは、日常ではどうしても起こることですし、それはそれでそういうものとして受け止める。それを無理に否定しようとすると、自我の思うつぼです。
 
 
 
私の場合は瞑想や真我探求ができるときは、できるだけ行って自分が自我ではなく存在であるということを確立していく。そして日常でモヤモヤや鬱々としてもできるだけそれに巻き込まれないようにして、そうなってしまってもそれを引きずらないように心がける。
 
 
 
それができるには、普段から自分自身を内省しておくことが大切です。
 
 
 
自分の状態がよく理解できていれば「今は自我に巻き込まれていない」「ちょっと思考や感情に巻き込まれているな」と気づけます。
 
 
 
普段から自分の状態をしっかりと観察して理解できていないと、自分がどういう状態かわからなくて、思考や感情に巻き込まれていき、そこから抜け出すのが難しくなります。
 
 
 
よく瞑想をしていて雑念が出てこないのがいい、何も考えないのがいいと思ってしまう人がいます。
 
 
 
苦しいときなど胸のあたりが重くなったり、頭がどんよりしたりなど、体に何らかの症状が出ることがよくあります。
 
 
 
そういった身体症状を無視して、ないものとして考えないようにする人もいます。
 
 
 
しかしそういった痛みや体の苦しさなどは、今自分が思考や感情に巻き込まれて、自我優位の状態であるというサインでもあります。
 
 
 
サインをしっかりと読み取らないでいると、益々エゴに巻き込まれてしまいます。きちんと見ないでいるとそれが抑圧されて、意識の奥底に蓄積されていき、それが後にもっと悪い結果をもたらすことにもなります。
 
 
 
考えないことが、気づきを失わせてしまうことにもなる。ですから考えないことがいい、ということでもないのです。
 
 
 
思考や感情に巻き込まれていても、それに気づいていることが大事で、何も考えていないことと、巻き込まれていることに気づいているのは大きな違いがあります。
 
 
 
瞑想をしていて特に雑念がない、余計なことを考えていないから瞑想ができていると思ってしまう人がいますが、それは単に無知が強くて気づきがないというケースが多いです。
 
 
 
気づきと思考の違いはなかなか言葉で説明するのが難しいですが、よくないとされる思考は、意味もなく沸き起こってきて支離滅裂です。
とりとめもなく生じては消えていく。 
 
 
 
よく過去のことを思い出して、「あの時あんなことがあった」とか「未来はどうなるんだろう?」などといった思考が生じてきます。
こういった思考は私たちを目覚めさせることはありません。
 
 
 
気づきがある時は、意識が非常に鮮明、クリアーな状態です。気づきがあることで、苦しみや悲しみなどから解放されていきます。
 
 
 
本来の自分の姿、在り方、真我や仏性といわれるものに戻してくれます。
 
 
 
例えば日常で怒りが生じます。多くの人は怒りが起こっても、怒りから意識を離して忘れようとし、深く検証することはありません。
 
 
 
そこで冷静になり、なぜ怒りが生じるのか?どこから怒りが生じるのか?などを検証する。
 
 
 
意味のない思考ではなく、きちんとした検証ができることが大切です。
 
 
 
普段の思考は論理性がなく、きちんと検証する時はきちんと筋道を立てて論理的なものです。
 
 
 
ただし、どうしても怒りが強くて検証するどころではない、そういう時怒りを冷静に眺めて検証しようとしてもできない場合は、いったん忘れてしまった方がいいこともあります。
 
 
 
とはいえ、忘れてしまう、考えないようにすると、先ほども述べたようにそれは消えてしまったのではなく、抑圧されてまだ残っているから、それはどうしても検証などができない時のことであり、可能ならばきちんと検証できた方がいいです。
 
 
 
そしてこういうことは自分ひとりの時はやりやすいですが、人がいる場合は難しいですね。
 
 
 
家族や友人、仕事での同僚や上司などで、自分がどうしても好きになれない人など、「あの人はどうしてああいうことをするんだ?! こうしてほしいのに?」などと考えたりしますね。
 
 
 
しかし他人に変わってもらおう、何とかしてほしいと思い働きかけても、変わってもらうのは不可能です。相手が自分の思うとおりに変わってくれることはないです。
 
 
 
人を変えようとかするのではなく、自分が変化していくことがずっと大事です。
 
 
 
人を変えようとする前に、自分自身が目覚めていくことが肝心なことです。


闇や弱さを隠さず、認めていく

2019年11月24日 21:48:24

カテゴリー:エッセイ,覚醒

私はコンプレックスが色々とありました。自分の弱さを理解しつつ、どうしてもそれを認めたくなかったのです。でもやはり認めざるを得ないんですね。
 
 
 
どんな人にも強さもあり、弱さもあります。良いところを周りに見せていきたいものですが、自分の弱さや闇であるとか認めてしまった方が実は楽です。
 
 
 
そしてそれを認めてしまった方が自分自身楽になるし、周りの評価も変わってくると。
 
 
 
Googleは世界で最も成功した企業の一つですが、 そこで瞑想を取り入れたり、色々な試みをしていますが、Googleはマインドフルネス瞑想を行なっていることは知られていますが、Google社において様々なキーワードがあるそうですが、近頃では「脆弱さ」ということがよく言われているそうです。
 
 
 
宗教やスピリチュアルの世界で、成果を出してきた人は、自分の弱さを見せたがらなくなる傾向がありますが、ビジネスの世界でもそれは同様でしょう。
 
 
 
「自分は仕事ができる」とか「これだけ成果を上げてきた」ということをアピールし、自分の弱さや問題点をあまり出さない、認めたがらないと。
 
 
 
でもGoogle社で「脆弱さ」ということを自分で認める人も出てきていると。それは素の自分を出すことになるわけですね。強さとか良い面だけということはあり得ません。それは偏った面しか出していない。強さも弱さも曝け出していいのだと、それはオープンな状態ですね。クローズしていません。
 
 
 
一面しか出さないのは閉じている、クローズしています。全てを認めて出していくのはオープンしています。
 
 
 
そしてオープンな状態とクローズな状態ではどちらが信頼できるかというと、それはオープンな方です。
 
 
 
「脆弱さ」を認めて出して行った方が信頼が得られる、そして仕事の成果も上がるとのことです。
 
 
 
Google社においてそういうことをキーワードにして、仕事の成果が出ているというのは興味深いですね。世界で最も成功している企業の一つで「脆弱さ」を認めてビジネスの成果が出るというのは説得力がある。
 
 
 
これが何の成果も出してない企業でそんなことを言っても「何の結果も出ていないのに、そんなことっを言われても説得力がないよ」と言われてしまいます。
 
 
 
Googleでそういうことがあるとのことで、自分の脆弱さ、弱さを認めそれを出していくのは大切なことなんだ、となりますね。
 
 
 
私の中にある弱さや闇を探っていくと、自分の幼少期から振り返っていくと、「こんなことがあったな」など色々と出てきます。
 
 
 
私は物心ついた頃から色々と考えていまして、自分の中に深く入っていくそういう傾向がありましたが、最初は狭い世界の中で生きているじゃないですか、それが幼稚園に行くとより色んな人と接するようになる、世界が広がっていきます。
 
 
 
それまでは自分だけの世界にいたのが、より開かれた世界にいくことに対して、ある種の恐れがあったなと振り返ってみて気づきました。
 
 
 
私が幼稚園に親に連れられて初めて行ったときのことですが、親が帰ってから、ずっとそれまで親と一緒にいるのが当たり前だったのが、親以外の見ず知らずの人達と一緒にいることが、寂しさとか恐怖や不安といったものが一気に押し寄せてきて、自分の記憶ではかなり大泣きしました。
 
 
 
ちょっと泣いただけかもしれませんが、記憶ではかなり大声を出して泣いていました。それが2、3回続いたんですね。さすがにずっと何日も泣いてはいませんでしたが、自分の中にある不安や恐怖や寂しさ、こういうものは自分が幼稚園に通う頃から間違いなく内在していたなと記憶としてあります。
 
 
 
 
私は一人っ子で、父親が40代の時に生まれたので、親からかなり可愛がられたなと、今振り返ってみるとそう思います。
 
 
 
親から虐待を受けたという人の話を聞いていると、虐待を受けるのと、親から愛されて育つとでは大きな違いがあると思います。
 
 
 
ですから親から愛情を受けてきたのは本当に良かったですが、物事には二面性がありまして、愛されてきた分甘やかされてきたなとも思います。
 
 
 
それによって後に苦労することもありまして、これは自分では記憶していなかったことで親から言われたんですが、幼稚園に行く際に当然靴を履いて行きますが、それまでは靴を履くのも親にやってもらっていました。
 
 
 
それが幼稚園では靴を履くのも自分でやりますね。それが一人で靴が履けないということが判明しました。そこで親が大慌てで一人で靴が履けるようにやらせたということです。
 
 
 
その時は何とか事なきを得たようなのですが、それはさすがに甘やかされていたなと。そのことを親から聞いて「それはいくらなんでもひどいな」と思いました。
 
 
 
甘やかされたといっても、親から全然怒られたことがないとかそういうことはなくて、怒られるときはかなり厳しく怒られたりもしましたが、それはそれとして甘やかされてはきたなと思います。
 
 
 
そして小学校に入学して、私の性格として悪口を言われたり、他の子から叩かれたりしてもやり返せないんですね。そうなると余計からかわれたりしました。
 
 
 
私は深刻ないじめは経験していませんが、よくからかわれたり軽いいじめのようなものはありました。
 
 
 
そして中学の時が一番ひどかったですね。具体的に言うと私は少々顔が面長で、馬と言われたりしました。口で言われるだけでなく黒板に落書きをされたりしました。
 
 
 
そんな中でも一番嫌だったのが、鞄をしょっちゅう隠されたことです。鞄を机の横に掛けておくと、ちょっと目を離した隙に隠される。それで鞄を探す。あれはちょっと参りました。
 
 
 
登校拒否とかそういうことはなかったですが、結構悩んだ時期もありましたね。
 
 
 
私はそういうことをしてくる連中とも普通に談笑したり遊んだりもしていたので、酷いいじめはなかったですけれども、私は人をからかったりいじめたりする心理がよくわからなかったので、それなりに悩んだりしました。
 
 
 
そうしているうちに段々意識が屈折してくるんですね。
 
 
 
子供の頃は物語でもハッピーエンドや勧善懲悪が好きでしたが、思春期になるにつれて次第に世の中そういうものではないな、必ずみんながハッピーになって、正義が栄えて悪が滅びるとは限らないな、と考えるようになっていきました。
 
 
 
中学高校になると、バッドエンドやちょっと屈折した物語を好むようになっていきました。音楽でも暗い音楽を好むようになってきました。
 
 
 
元々天真爛漫な性格だったのが、それだけでは世の中を生きていくのが難しいなと、何かしらそういう意識が芽生えてきた感じがします。
 
 
 
高校生になると、周りの連中と話が合わないんですね。それでからかわれたり、変わり者扱いされたりしました。
 
 
 
幸い中学高校と一緒の友人が数名いて、だから完全に孤立することはなく話し相手はいてそれはよかったんですけれども、彼ら以外とはなじめなくて高校時代も結構悩みました。
 
 
 
高校の英語の授業で、ある本を題材として取り上げて、それを読むように言われましたが、それが有名なJ・Dサリンジャー著の「ライ麦畑でつかまえて」でした。
 
 
 
最近は村上春樹が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のタイトルで新訳を出しましたが、その本を課題図書として読むことになりました。
 
 
 
それが家にたまたまあったものですから、新しく買うこともなく読みましたが、それを読んだときに衝撃を受けました。思春期で色々と揺れ動いている自分の心情に主人公に対して、感情移入というレベルではなく、「これは自分だ」というほど同化してしまいました。
 
 
 
「ライ麦畑でつかまえて」の主人公、ホールデン・コールフィールドといいますが、これがヘタレなわけです。そして精神的にかなり追い詰められていると。
 
 
 
学校が合わず何度も学校を辞めて、別のところに通ってということを繰り返しています。
 
 
 
物語の中では学校を飛び出してニューヨークの街を彷徨います。一種の地獄巡りのようになりまして、そこで色々な人たちに会い、傷ついたり幻滅したりして、本当にボロボロの状態になっていきます。
 
 
 
ホールデンは世の中に対して不平不満ばかり言っていますが、近づこうということも考えてそういう行動もとるんですが、やはり自分の期待がことごとく裏切られて、身も心もズタズタになっていきます。
 
 
 
そして最後の最後に妹のところに行きます。妹はフィービーといいますが、彼女は純粋無垢、イノセントの象徴です。
 
 
 
ホールデンはそういった魂と触れ合うことで、ほんのささやかな魂の解放のようなものを体験します。
 
 
 
最終的にはハッキリとは書かれていませんが、どうやらホールデンは精神病院に入院しており、そこで物語を語っている。これが「ライ麦畑でつかまえて」です。
 
 
 
私は「ライ麦畑でつかえて」を初めて読んだ時高校1年でしたが、社会や世間や周りの人たちに対してかなり屈折した思いを抱えていました。
 
 
 
露骨に周りに逆らったり反抗したり、わざわざ孤立していたわけではありませんでしたが、自分の中では相当鬱々としたやりきれない思いがあり、私のそういった内面をホールデンが代弁してくれていたように感じたのです。
 
 
 
そこでホールデンに同化していった訳ですが、ただ先ほども言いましたが、ホールデンはハッキリいってヘタレで、何かあると逃げてしまったり、口ばかり達者で、肉体的にも精神的にも脆い状態です。
 
 
 
最終的には精神的に限界にきて、精神病院に入院してしまいますから、どこか狂気性も秘めているかと。
 
 
 
そういうものに惹かれてしまうのは、私の中にも狂気というものや、ヘタレという性質が間違いなくあるんですね。
 
 
 
他にも文学で筒井康隆が好きで、筒井康隆を読まれたことがある方はおわかりのように、非常に攻撃的で狂気や猛毒が秘められています。
 
 
 
そういうものにすごく惹かれる自分がいました。正常を保ちつつ狂気にも惹かれるのです。
 
 
 
バットマンというアメコミのヒーローがいますが、そのヴィラン、敵役にジョーカーというキャラクターが有名ですね。
 
 
 
ジョーカーは純粋悪、完全なる狂気です。
 
 
 
私はジョーカーというキャラに非常に惹かれるものがあり、ジョーカーの表情を真似たり、そんなことをしたりしました。
 
 
 
だから私にもジョーカー的な性質があるなと。
 
 
 
そしてふざけてジョーカーの真似をすると、周りからすごく気持ち悪がられるんですね。「そんなの辞めなさい」と。
 
 
 
そういうものに惹かれるのは、社会や世間に馴染めない、そして自分はやはり周りと違うんだと、人と違うんだと、そういうところでアイデンティティを保っていたんですね。
 
 
 
周りに反抗したり、外側に破壊的な衝動は向かいませんでしたが、内側にマグマのような鬱積した思いがありました。
 
 
 
狂気に惹かれることで自分のアイデンティティを保っていましたが、その背景にはイジイジ、ウジウジとした成長できないインナーチャイルドみたいなものがあり、それが狂気に転じていました。
 
 
 
私もやはり何か自分にとって不利なことであるとか、まずいこととか、そういうものを誤魔化してしまおうとしていました。
 
 
 
何か指摘されても反応せず黙っていたり、誤魔化して覆い隠そうとするという働きがありました。
 
 
 
親や教師から指摘されても、素直に謝れない、ごめんなさいと言えず、イジイジ、ウジウジとしたところがあったのです。
 
 
 
そして今現在もそういった傾向はあります。
 
 
 
それはやはり子供のころからの、イジイジ、ウジウジとしたインナーチャイルドが自分の中にあり、それが転じて狂気のジョーカーになってしまう。
 
 
 
そして色々とコンプレックスがあり、一般社会に必要な能力とか才能が自分にはないなあと思い込んでいました。
 
 
 
勉強がよくできたわけでもなく、運動もそれほど得意でもなかったです。
 
 
 
体もそれほど強くなく、元々虚弱でした。
 
 
 
そういった様々な点でコンプレックスがあった。それを克服するために修行や瞑想にのめりこんでいきました。
 
 
 
頭で勝負することもできなかったし、体を鍛えてスポーツでトップに立つこともできなかった。
 
 
 
どのようにして自分を強める、高めていくかということになると、宗教的なこと、精神世界・スピリチュアルなものに走りました。
 
 
 
そして取り組んでみると多少の成果が出たので、「これならいける」と思い、自分の弱さや闇、イジイジ、ウジウジとしたインナーチャイルド、狂気などを覆い隠していき、自分のアイデンティティを形成していきました。
 
 
 
それで途中まではよかったですが、それをやればやるほど自分の弱さ、脆弱さ、闇の部分、これらを覆い隠していくとどんどん乖離が生じてきました。
 
 
 
そうなると逆に闇が強くなり、闇落ちのような状態に何度か陥りました。
 
 
 
何とかそこから脱却することはできましたが、そこから更に自分の弱さ、混とんとしたところ、人に隠したい面、それらを今まで以上に見つめて認めていくことで、自分自身が救われていった、そのことを身に染みて感じました。
 
 
 
ただ気をつけねばならないのは、不幸自慢といいますか、私はこれだけ不幸であるということをアピールして、悲劇の主人公のようになり、それに酔いしれてしまうとそれはそれで違うことになります。
 
 
 
これだけ自分は苦しいんだ、不幸なんだ、だからかまってほしい。とならずに自分の弱さや闇を冷静にありのままに見つめ、覆い隠さず素の状態でいる、これが大事なことではないかと思います。
 
 
 
スピリチュアルリーダーの話を聞くと、良いことしか書かれていなかったり、話に出てこないですね。
 
 
 
よく暴露話が出てきますが、隠そうとすればするほど裏の話も出てきて、闇も際立ちます。
 
 
 
評価されている人たちでも、裏の話やぐちゃぐちゃなことや、スキャンダラスなことが出てきます。
 
 
 
今までは指導者の素晴らしい話し、感動的な話しばかり広まってきましたが、強さも弱さも全部ひっくるめてあるがままに出していく、それを我々も受けいれて受け止めていく、そういったことが大事ではないかと思います。