フィクションから解放される

2020年01月14日 18:20:27
カテゴリー:エッセイ,覚醒

多くの人たちが、お金があれば幸せになるとか、学歴が高ければいい仕事につけて幸せになれるとか、などの観念にとらわれています。

 

 

以前と比べるとお金があれば幸せである、といったことに疑問を持つ人も増えていますが、まだお金や物質に恵まれていることで幸せと感じる人が多いです。

 

 

いかにお金があったり、地位や名誉や権力があったとしても、大きな失敗などでそれが崩れてしまったり、そもそもお金があっても内面が満たされない人も多くいます。

 

 

昨年沢尻エリカがドラッグを所有して逮捕されたことは、いまだ記憶に新しいですが、沢尻エリカは美貌と演技力を兼ね備え女優としての評価も高く、仕事の依頼も常にありました。

 

 

彼女は人も羨むような状態にありましたが、ドラッグで逮捕され、今まで築きあげてきたものを一気に崩してしまいました。

 

 

ドラッグをやってしまうのは、何か満たされないものがあったのではないかと思われます。果たして彼女が幸福だったのか?それも疑問に思えます。

 

 

いかに見た目が良くて、お金も地位も名誉も権力もあったとしても、人々から賞賛されていたとしても、それが幸福に結びつくかというとそうとも言い切れないですね。

 

 

外的なことが充実していても、それが絶対的に幸福になるわけでもなく、それも一種の幻想、フィクションですが、まだ多くの人がそのフィクションを信じています。

 

 

そしてそういった物質的、外的なことだけでなく人々は色々な思想、イデオロギーにとらわれており、それが絶対であるとか、絶対でなくてもそれを信じ込んでいる人が非常に多いです。

 

 

今世界中で一番広まっているイデオロギーは資本主義です。

 

 

そして今は衰退してしまいましたが、かつては共産主義という非常に大きなイデオロギーがあって、それを信じている人が多くいました。

 

 

かつては共産主義というイデオロギーが人々を幸福に導くと、これが最高のイデオロギーだと思う人がたくさんいましたが、それが多くの国で崩壊しました。

 

 

そして今では資本主義にほとんどの国が支配されていますが、この資本主義も色々と問題があると指摘されてもいます。

 

 

資本主義によってどんどん経済的格差が生じてきています。

 

 

結局共産主義も資本主義もフィクションであり、それらを信じるだけでは本当の幸福に結びつきません。

 

 

宗教や精神世界・スピリチュアルに関心のない人のことについて述べてきましたが、そういったものに関心がある人たちはフィクションにとらわれていないかというと、全くそんなことはなく強くとらわれています。

 

 

キリスト教やユダヤ教では唯一絶対の神がいて、その神を信じることで救われるという、これも一種のフィクションといいますか、ストーリーですね。

宗教というものは、神やそのような存在を信じたり、それを礼拝したり拝むことで救われていくというストーリーを持っているところが多いです。これも一つのストーリーであるのですが。

 

 

そういったフィクションやストーリーを信じることで救われた人もいるかもしれませんが、そういうことを信じられなくなった人が、現代社会では増えています。

 

 

私はイエス・キリスト個人はは好きですし、間違いなく聖者だと思いますが、今のキリスト教は、果たしてイエス・キリストの教えを正確に伝えているか疑問です。

 

 

宗教を強く信じる人がまだ多くいる一方、宗教を信じられなくなったり、救われない人も多くいます。

もはやフィクションとしての宗教だけでは限界が生じてきていると思えます。

 

 

現代においては科学が発達したことで、例えば聖書や仏典の一部の内容について、科学的見地では全然違っているということがでてきました。

 

 

仏典でも世界はこうなっている、という記載がある経典があります。

世界の中心にスメール山という高い山があり、その周りを四つの大陸が囲んでいて、周りが海となっています。

 

 

ところが仏典にある世界と、科学的に観測された世界は違います。

 

 

現在のダライラマ法王は科学的考え方をされる方で、仏典では世界はこうであるとなっていても、科学的観点だとそれは違うから、経典をすべて妄信するのはよくないと語っています。

 

 

宗教において、現代科学では否定されるようなことを信じる人がいますが、実際にはフィクションであって、それをずっと信じ込む、とらわれ続けることは良いことなのか疑問です。

 

 

仏教は宗教のカテゴリーに属すると一般的には言われますが、元々釈迦牟尼が説かれた教えは、色々なフィクション、ストーリーから脱却する、そういった教えであり考え方です。

 

 

仏教も後には色々な考え方がでてきて、例えばマントラ、真言を唱え続けることで救われるとか、神仏をイメージしてそれと合一するなどというものもでてきましたが、元来釈迦牟尼の教えにはそういったものはありませんでした。

 

 

仏教の瞑想には二つのやり方があり、一つはサマタであり、もう一つはヴィパッサナーです。簡単にいうとサマタは心を止めて、ヴィパッサナーはその状態で観察をします。

ヴィパッサナーで何を観察するかというと、自分の思考や感情や観念などを、フィクションを交えずに、冷静にあるがままに観ていきます。

 

 

ですから神や仏など対象を拝む、信仰することで救われるなど、初期の仏教ではそういうことは説かれませんでした。

 

 

後の仏教でも禅やチベット密教でもゾクチェンは、ただ見る、ただ在るということをするようですね。

 

 

チベット密教で、ゾクチェンを行ずる前にマンダラ供養を行ったり、グルヨーガやイメージを用いた瞑想をするようですが、最終的にはそういったものを一切行わなくなると。

 

 

人類は様々なフィクションを作り出し、それらを信じることで発展してきた歴史があります。

 

 

例えば神がいてそれを信じることで救われるというストーリーで、多くの人たちが集い、その考えのもとに団結して集団を形成することで大きな力を持ち発展したということもあります。

 

 

資本主義や共産主義などのイデオロギーに多くの人々が集い、大きな勢力を作り上げました。

 

 

ですがそういったフィクションが少しずつ崩れ始めています。

 

 

ですからフィクションによって人類が発展したという側面はありますが、ずっとそれにとらわれている、しがみついているだけでは限界でしょう。

 

 

そして覚醒や悟りというものは、そのようなフィクションから解放されていくことではないかと、そのような言い方もできるのではないかと、今私は思っています。

 

 

ただ、私たちがこの現実社会を生きていく上で、完全にストーリーやフィクションをなくせるかというと、それは難しいというかほぼ不可能でしょう。

生きていく以上、物質やお金は必要だし、科学も否定はできないし、完全なる否定はまだできません。

 

 

しかし物質的なものが満たされれば幸福だとか、資本主義や共産主義が絶対だとか、そうではなくそれらはフィクションなんだということを理解しておくのは大切なことではないかと思います。

 

 

宗教的実践において、神や仏を想定してそれを信じる、礼拝することで救われるという人は、それはそれでいいと思います。

 

 

ただ初期の仏教や禅のように、一切の虚構、フィクション、ストーリーから抜け出し解放されていくというやり方もあります。どの道を行くかは一人一人が自分で決めていけばいいことです。



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