真理に目覚めるには表面だけでなく深い領域まで理解すること

2019年10月16日 07:04:39
カテゴリー:エッセイ,覚醒

宗教やスピリチュアルなことを実践することは、色々と気をつけなければならないことがあることについて書きます。

 

 

今の日本ではスピリチュアルな指導者や団体は、良いことばかり言って、これだけ良い状態になるとか、あなたはもう大丈夫だとか、そういうことばかり語り、気をつけなければならないことについて説明が不足しているように思えます。

 

 

私は何年か前から、海や山に行って自然と一体になるスポーツをよくやっています。

 

 

そういったものは都会で行うスポーツやレクレーションと違い、心身が非常に浄化されるようなそういった効果があります。

正しくない形での修行や瞑想をするより、余程海や山に行った方が自分の精神性、霊性の向上、覚醒にとって良いような気がします。

 

 

しかし海や山に行き、自然と一体化するのは楽しいし素晴らしいことですが、同時に危険性もあります。

ですから事前にインストラクターから、危険性もありますから気をつけてくださいといった説明があり、スポーツをしている時も危ないことがないようにインストラクターがずっとついています。

 

 

実際私は海で流されて、このままでは死んでしまうのではないかということが数年前にあり、今年の夏も熱中症で具合が悪くなることがありました。

それゆえ海や山では怪我をしたり、場合によっては死んでしまうようなことがあるので、細心の注意が必要です。

 

 

しかし最近日本においてはスピリチュアルな実践において、このようなことを気を付けた方がいい、といった説明が十分になされていないように思えます。

例えば海や山に行って海で岸辺では安全ですが、沖の方に行けば普段経験できないようなことが経験できますが、それだけ危険性も増します。

 

 

私はダイビングはやっていませんが、海の深くに潜っていけばいくほど普段見られないようなものも見れますが、それだけ危険性も増大します。

山でもふもとでは楽ですが、頂上に向かっていくと非常に良い眺めになりますが、やはりそれだけ危険にもなります。

 

 

瞑想もこれと同じことが言えます。

 

 

瞑想は意識の深くまで潜っていくことでもあります。

山や森の奥深くに行くのと同じです。

 

 

修行や瞑想をしていき、意識が深い領域に至ると、素晴らしい経験をすることもあれば、見たくもないものが浮上して大変な目に会うこともある。

ほとんどの人達は表層意識にしか気づかず、より深い無意識、潜在意識といったものを理解していません。

 

 

表層意識では良いことを考えていたり、怒りなどあまりないという人がいるとしましょう。

 

 

ところがそういう人が瞑想をして、普段気づかなかったものがでてくると。そうすると普段認識していなかった怒りが生じるということがあります。

 

 

私が何年か前に参加した瞑想リトリートでもそういう人がいました。

 

 

瞑想の指導者が参加者の一人一人に瞑想はどうですか?とインタビューをした時に、私は普段怒りがないと言っていた人がいました。

 

 

ところが私から見ると、その人が怒りが無いということはありえず、怒りを内在させているのが明白でした。

 

 

それはなぜわかるかというと、その人の表情、話し方、行動、エネルギー状態でわかります。本人は気づいていなくても、そういうところに滲み出てきます。

 

 

インストラクターの人もその点を指摘しました。あなたは怒りが無いと言っているが、そのようなことはない、ただ抑圧していて気づいてないだけだと。

それを言われた人は、それを聞いて理解できないようで、表情に怒りが滲みでていました。

 

 

その人は怒りがないのではなく、単に気づいておらず抑圧しているだけでした。

 

 

瞑想をずっとやっているとそういうものが出てきます。

 

 

怒りが無いと言っていた人は、その時は理解できなかったですが、後で気づいたようでインストラクターの人に「指摘していただきありがとうございました」と感謝していましたが。

これは特別なことではなくて、多くの人が深層意識を理解していません。

 

 

表層意識だけで遊んでいるようでは、真の瞑想にはならず覚醒することもないでしょう。

 

 

人の内面は非常に素晴らしいものがあると同時に、ひどく醜い目を背けたくなるようなもの、どちらもあるんですね。

 

 

物事をありのままに見る明晰な意識とか、慈愛とかそのような素晴らしいものがあると共に、怒りや憎しみ、悲しみ憂いといったものが同時に存在している。

 

 

これは仏典でも、人間界は苦しみと喜びどちらもあると書いてあります。

 

 

地獄は苦しみしかなく、天界は喜びしかないともあります。

 

 

人間界は苦しみと喜びどちらもあるから、悟りやすいとされています。

 

 

私たちが瞑想を深めていくと、苦しみと喜びどちらもハッキリと出てきます。

精神的・霊的な学び実践を深めていくと、色々と汚れが出てくる。そのことを理解していないと、実践している人はパニックに陥ったり、闇に飲み込まれたりといったことにもなりかねません。

 

 

だからきちんとした指導者は、そのような気をつけなければいけない点をしっかりと説明します。

 

 

そういうことを説明しない指導者は、一つにはそういうことを言うと人が集まらずビジネスにならないから言わない。

もう一つは汚れが出てきて大変な状態の時、どうすればいいかわからないので言えない。

 

 

だから私は綺麗事しか言わない指導者は信頼できません。

そこは皆さんも気をつけていただきたく思います。

 

 

ただし汚れが出て大変だとか、そういうことばかり言う人、そればかり強調する人もどうかと思います。

 

 

あなたはこのままだと地獄に落ちる、などと言って信者を恐怖で縛り付ける指導者もいます。

人を恐怖で縛り付けるというのも問題ですから気をつけましょう。

 

 

では修行や瞑想をしていて、素晴らしい体験をすればいいのかと言うと、そこにも落とし穴があります。

 

 

例えば瞑想を深めていき、至福に満たされたり、色や光を見たり、「自分はこれだけの体験をしたから、修行が進んでいるんだ」となったりしてしまう人もいます。

これも修行上の大きな落とし穴です。これも指導者はきちんと説明したり対処する必要があります。

 

 

そういった至福に満たされたり、色々な体験をしたり、力がついてきたり、それらも途上ですからとらわないようにすることが大切です。

それらにとらわれて非常にプライドが増大したり、悟ったと勘違いすることもあり、それは一種の魔境ですから注意が必要です。

 

 

スピリチュアルな実践をすることは素晴らしいことも多いですが、同時に危険性もあります。そのことをきちんと理解しておきましょう。

 

 

また修行をするととにかく苦しい。でも苦しんで苦しんで、その先に解脱悟りがあるのだ、というのも違います。

逆に喜びだけがあるというのも違います。これらのことをよく理解していただきたいと思います。

 

 

そして修行や瞑想を深めていくと、肉体や表層意識が私だというのが違うということがわかってきます。

 

 

普段「これが私だ」という偽りの私に強くとらわれていると、真実の私に気づいていくプロセスで、そのギャップに苦しむこともあります。

 

 

そのことが理解できないと恐怖がでてきて、そのまま進めばより目覚めていくはずだったのに引き返してしまったり、ギャップに耐えかねておかしくなってしまうこともあります。

このように真理に目覚めていくことは、本来非常に素晴らしいことですが、偽りの自分や幻想、マーヤ―にとらわれが強すぎると、真実を知ることがとてもきついことになります。

 

 

こういったことも私たちはしっかりと理解しておく必要があるし、指導者はそういったことにきちんと対処できないといけません。

 

 

危険性を強調してきましたが、それを気にし過ぎるのも良くありません。

素晴らしい点も危険性もどちらも理解して、できるだけ冷静であって頂きたいと思います。



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