意識を鮮明にしてただ在る

2019年09月18日 07:07:30
カテゴリー:エッセイ,覚醒
何のために修行しているのか、精神世界やスピリチュアルなことを学び実践するのか、人それぞれの動機があると思います。こうしなければならないということはありませんが、私の場合は色々な幻想、マーヤというのがありますが、そこから目覚めると、そこから脱却するということを目指しています。
 
 
中には色々な力を得たい、シッディ(超能力、神通力)を得たいという人も世の中にはいます。あるいはシッディよりももっと現実的な能力を開発するであるとか、仕事が上手くいくとか、より良い生活をするとか、そういうことを目的とする人もいるでしょう。
 
 
もちろんそういうことを目指すのは悪いことではありません。しかし現実的な能力であるとか、ビジネスが上手くいくとか、この世をより良く生きるとか、あるいはシッディであるとか、そういうことは全て幻想です。
 
 
そしてそういったものも全ていつかは消え去ってしまう、壊れてしまいます。ですからどういうことを目指すかは自由ですが、もしもシッディとか現実的なことよりも、それらを超越したものを目指すならば、それは素晴らしいことです。
 
 
そういった幻想  マーヤというものを超えていく、迷妄から目覚めていく、それは色々な教えがあり、さまざまな言い方があります。
 
 
ヒンドゥー教では真我、アートマンと言ったり、仏教では仏性と言ったり、色々な言い方があります。
 
 
この真我の状態というのはどういうものでしょうか?これも色々な見解、表現がありますが、例えば純粋観照者、純粋にただ見ているそういう表現もあります。
 
 
それと似たようなものですが、純粋に気づいている状態という見解もあります。
 
 
あるいは見ることすらしていない、ただ存在している、ただ在るという状態と。
 
 
このただ純粋に見ている、ただ気づいている状態というのは、普通私たちはなにかを見る時に、自分の観念であるとか、色々な思いというものをのせて見てしまいますが、そういうものを付加することなく純粋に見る。
 
 
ですからなかなか難しいですが、物事を見る時できるだけ自分の思いであるとか、色々な観念であるとか、そういうものを乗せずに見る訓練を普段からする。
 
 
それと大切なことが、そのようにただ見ている上で大切なこととして、意識がどんよりと濁った状態ではなく、意識が鮮明、クリアな状態であるということです。
 
 
例えばある種類の修行や瞑想をしていくと、意識が高揚すると言いますか、エネルギーが高まって興奮状態になったり、意識が混沌とした状態になる場合もあります。
 
 
これは経験がある人もいるかもしれませんが、意識の奥底へ深く入っていくとボーっとしたり、意識が混沌としたりなど、そういう状態になったりします。
 
 
最初の段階ではそれでいいですが、その混沌とした状態で終わってしまってはいけません。そのボーっとした混沌とした状態を抜け出すと、意識がクリアで非常に鮮明な状態になっていきます。そこに至らなければ意味がありません。
 
 
これは自明のことですが、意識が混沌とした状態だと物事をあるがままに見ることが難しくなります。
 
 
意識が鮮明な状態であれば物事をできるだけ正確に、あるがままに見ることができるようになってきます。
 
 
意識を鮮明にしておく、クリアにしておくというのは簡単ではないですが、修行や瞑想をして混沌とした状態でいてはダメだと理解しておくだけでも違います。
 
 
ではただ在る、ただ存在するということについてですが、色々と目覚めた人達の中には余計なことをせずただ在なさいということを言う人達がいます。
 
 
特に現代社会というものは何かをするということが非常に大事、何もしないことが悪いというイメージがついています。
 
 
私達が何かをすることで色々なカルマを形成することにもなります。真我の本来の存在はただ存在する、在るだけです。だから私達も余計なことをせずただ在ることを心がけていれば、その状態に戻っていけるようになるでしょう。
 
 
何もせずただ在るということが段々根付いてくると、本当に自分はそれでOKなんだというようになってきます。
 
 
ただそれは普段の日常生活において、仕事をしていたり誰かと接していたり、日頃の雑用などをやっていると、そういうことを理解したり気づくことは難しいです。
 
 
ですからできるだけ1人で静かにしていられる時間と場所を作って、そういう過ごし方をする習慣を設けるようにすることが大切です。
 
 
私の場合一人暮らしなもので、自分一人で過ごせる時間と場所を作りやすいです。だからできるだけ一人で静かに過ごせる時間を設けるようにしています。
 
 
ただ家族などがいて、なかなかそうもいかないという人もいるでしょう。そういう方たちもできるだけ工夫して、毎日は難しくても、何日かはそういう過ごし方をするように心がけていただきたく思います。
 
 
その時は座って瞑想できればそれは理想的ですが、それが全てではないです。横になって寛いでもいいです。
 
 
ただし横になると寝てしまいやすいので、座っての方がいいとされます。横になって寝ずに寛いでいることができればそれでも構いません。
 
 
ヨーガでシャヴァアーサナ(寛ぎのポーズ)がありますが、アーサナやプラーナーヤーマをやって、シャヴァアーサナをとる。そして寝ることなくくつろげればとても良いです。
 
 
そしてこの何もせずただ在る、ということが最初のうちは非常に無駄なことではないかとか、何かしなきゃならないのではないか、というマインドの思いが色々と湧いてくるかもしれません。
 
 
何もせずただ在る、ただ存在していることが理解できるようになったら「ああ、これこそが本来は全てである」ということが段々わかってきます。
 
 
ただこの何もせずただ在るということは、理解することがなかなか難しい。
 
 
それは修行をしていない人は当然ですが、修行や瞑想をしていてもわからない人もいます。
 
 
私がインターネットで、何もせずただ在る、ということを書いた時に、そのことを批判してきた人がいます。
 
 
そんなことをしていても何にもならない、ということを言ってきた人がいました。
 
 
そういう人達は修行や瞑想をしていて、自分達が何か特別なものになるとか、何か別のものになるとか、そういう思いがあります。
 
 
ただ本来は修行や瞑想を行うことで、何か別のものになるのではなく、本来の自分に戻っていくことをしています。
 
 
余分なことをしないでいたら、本来の自分に戻っていくので、何もせずただ在ることが理想です。
 
 
ではただずーっとボケーとしていればいいのか?というとそう簡単な話ではありません。
 
 
純粋に見る、純粋に観照する、気づきというものがないと、ただ単にボーっとしているだけでは、混沌とした状態で終わってしまいます。
 
 
だから鮮明な意識を、気づきを保った状態で、何もせずただ在るであればベストです。
 
 
このことをまず知識としていれておき、それを少しずつ実践して本当の意味で体得していきましょう。
 
 
あと何もせずただ在ると言っても、仕事もせず何もしないとかそういうことではありません。しなければいけないことはきちんとしましょう。
 
 
今回の内容はシンプルな内容です。しかしこれを本当の意味で理解するとか、本当の意味で実践するとか、それはなかなか難しい。
 
 
 
私達が何かをする、そうしなければいけないということを植え付けられているので、何もせずにいることが難しくなっています。
 
 
この内容は私達が迷妄や幻想、マーヤから離れていくためにどうすればいいかということについてです。
 
 
それはこれが唯一絶対ではありません。みなさんに合うものがあればそれをすればいいのです。
 
 
人というものは自分がこれをやって結果が出た、だから他の人に伝えようとしますが、それは私にとっては良くても皆さんには合わないかもしれませんよね。
 
 
一番大事なことは、言われたことをただやることよりも、本当に自分に合ったものをやっていくことです。


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