瞬間瞬間を楽しむ

2015年04月08日 21:26:20
カテゴリー:エッセイ

スピリチュアルの世界では、引き寄せの法則が一部の人達の間で流行っており、また源泉につながれば、この世も思うがままになると主張する人もいる。それはそれでいいだろうし、実際にうまくいっている人もいるだろう。だが私は今のところその立場ではない。

 

 

現時点で私は、あらゆることが自分の思うがままになってはいない。この世で生きている以上、なんらかの願望が生じることがあるが、かなうものもあるが、全く現象化しないものもある。

 

 

数年前から私は、誰かと一緒に何らかのワークなり、イベントなどを行えたらいいなと考えていた。それは自分一人の力では限界があるし、一人でいるとどうしても独りよがりになってしまう傾向があるので、そうならないためにも誰かと組んでワークなりイベントなりを行えればいいなと思ったのだった。

 

 

ところが何人かの人達に、一緒にこれこれこういうことをやってみませんか?と持ちかけてみても、ことごとく断られたり、急にダメになったりということが続いている。

わたしの力不足というのはもちろんだが、話を持ちかけた人達は、おたがいに信頼関係ができている人達ばかりで、こちらから信頼もできてない人に押しかけるならともかく、ある程度話し合ったり私ができることを体験してもらった上で断られたりダメになっているので、これはこちらの意図を超えたものの働きかけがあるのだと感じている。

 

 

引き寄せや思うがままに生きる、という立場ではないならば、どのような立場ではいるのか?私は瞬間瞬間をできるだけあるがまま受け止め、できるだけ楽しむように心がけている。今のところこのような在り方が、自分にはしっくり来る。将来的にはあらゆるものを引き寄せて、願望を叶えまくっているかもしれないが、現時点ではそちらの方向に向かわず、起こることを受け入れて、楽しむことをやっている。

 

 

世の中にはギャンブルにはまっている人が多くいる。ギャンブルをしない人から見ると、ギャンブルにのめり込んでいる人達は、かなり奇妙に見えるだろう。

ギャンブルで勝ち続けることはほぼ不可能で、ほとんど人がお金をすってしまう。馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたこともない。しかしそれにも関わらず少なからぬ人々が、ギャンブルにのめり込んで勝った負けたと一喜一憂している。

 

 

私はギャンブルをやらないが、ギャンブルにのめり込む人達の心理がわからなくもない。ギャンブルで負けていて、時々勝った時の快感たるや、忘れられないほどのものだろう。私の勤め先で、パチンコだ競馬だとギャンブルにはまり込んでいる人達が何人もいるが、景気のいい話などほとんど聞いたことがない。大抵が昨日はいくらすった、今日はこれだけ負けたとという話ばかりである。

 

 

それがたまに今回は大勝した、ということがあり、その時はもう満面の笑みを浮かべている。そして勝った時の快感をまた体験しようと金をつぎ込み、今度はこっぴどく負けてしまう。それの繰り返しである。ギャンブルは中毒になるというが、ギャンブル好きは程度の差こそあれ、みんな中毒になっているといえる。

 

 

それだけの魔力がギャンブルにはあるが、これが常に勝ち続けるとなると、ほとんどの人が飽きてしまうはずである。常に勝つとわかっていたら、勝った時の快感がかなり薄まってしまうだろう。人間というものは何でも思い通りになるとそれに飽きてしまう。そもそもこの世は楽あれば苦ありという思いが強くある。水戸黄門ではないが、人生楽ありゃ苦もあるさである。

 

 

映画「マトリックス」で主人公ネオを導くモーフィアスが、敵であるエージェントに捕獲され、拷問を受ける場面がある。エージェントスミスは、モーフィアスに仮想現実であるマトリックスの成り立ちを語る。

 

 

「そもそもマトリックスは、人々が苦しまずしあわせに暮らせる理想郷を築くために考案された。だがプログラムは拒絶され、中の人々は全滅した。我々のプログラムが、理想郷を描くには不十分だったと言われた。

だがそれは違う。そもそも人類は、不幸や苦しみがないと現実とは思えない種なのだ。だからこそ理想郷は、人類の原始的な脳には悪夢となり拒絶された」

 

 

ここでエージェントスミスが語るように、人類は喜びだけではこれが現実と思えないようであり、また満足をしない。ずっと勝ち続けるギャンブルをつまらなく感じてしまい、また人生は楽あれば苦ありというものだという思いが根づいている。だから何でもかんでも引き寄せて、思うがままに生きるとしても、何か物足りなさを感じたり、飽きてしまうのではないか。少なくとも私はそうである。

 

 

ではわざわざ苦労をすればいいのか?ということにもなるが、それも極端であろう。苦労は買ってでもしろ、とも言うが、あまり苦労ばかりしすぎても人間は歪んでしまう。苦労をしてそれが生かせればいいが、生かすことができなければあまり意味はない。楽に生きてもそれを生かせれば大いに意味はある。要はその人次第である。

 

 

 

そんなわけで、私は何でも思い通りにいくことを望まず、苦労をわざわざ買うこともせず、瞬間瞬間起こることを自然に受け入れ、楽しむことにしている。この世で体験することは、色々と大変なことも多いが、貴重なものでもある。熱心に修行をしている人の中には、この世をひどく毛嫌いし、世俗的なことを極端に厭う人もいる。

もちろん世俗に巻き込まれてもいけないが、極度に嫌う姿勢もいかがなものかと思う。現世も修行に生かそうと思えばいかにでも生かすことができる。この世をひどく嫌う態度は、背景に恐怖がある。

 

 

恐怖が背景にあると、真実を理解することはできない。覚醒など以ての外だ。現世に巻き込まれないようにするのは大切だが、恐れて逃げているようでは、せっかくの気づきのチャンスを台無しにしてしまう。世俗に巻き込まれることなく、気づきを得ていくのに、瞬間瞬間を受け入れて楽しむというのは、有効な手段であると思う。少なくとも私にとってはそうである。

 

 

瞬間瞬間を受け入れていくのは、今にあることにもなる。私たちはどうしても過去や未来にとらわれてしまう。そして様々な思考が生起し、苦悩することになる。瞬間瞬間をあるがままに受け止めていくと、思考が過去や未来にさまよいそうになっても、今に戻ることが容易になる。やがては無理に戻ろうとしなくても、勝手に今にあるようになっていく。初めは訓練のようなものだが、続けていけばオートマティックに今に在るようになる。

 

 

ここで受け入れると言ってはいるが、何でもかんでも取り入れてしまうのではなく、手放すものは手放し、受け入れて取り入れるものはそうする。そこは自分の選択となる。その選択もあらかじめ決まっているのだ。という人もいるが、私はその見解をあまりとりたくない。自由意志を超えたものがあるが、自由意志が全くないというのも極論であると思う。まあ全ては決まっているというのも、自由意志があるというのも、どちらにしろその人それぞれがどの見解を取るか決めればいいことだ。

 

 

そしていったんは受け入れるというのは、どのような現象が現れたとしても、それを引きずらないということだ。人間はどうしても「これはいい、あれはやだ」という思考や感情が生起するものだ。生起するのはいい。問題はいい悪いといった思考や感情にいつまでもとらわれていることだ。それはやがて意識の深いところに根付きカルマとなる。思考や感情が生起しても、それにとらわれず早いうちに手放すことができれば、カルマを形成することはない。

 

 

日々是好日という禅の言葉がある。これは毎日良い日が続いて結構なことだ、などという意味ではない。いつも晴れの日ばかりとは限らず、雨の降る日もあれば嵐の日もある。そのことに対して心を動かすことなく、瞬間瞬間を受け入れて全力で生きる。それこそが日々是好日である。

普通は晴れの日は気分が良くて、雨の日は憂鬱だ、となるだろう。しかし晴れていようが雨が降ろうが、この瞬間をあるがままに受け入れていれば、昨日は良かったが今日はダメだ、とならずに日々が良き日となる。これこそが禅の真髄であり、とても深遠な言葉だ。この真の意味合いを理解すれば、色々と思い惑うこともなくなるだろう。

 

 

引き寄せの法則で自分の好きなように引き寄せ、自分の思うがままに生きることは素晴らしいが、瞬間瞬間をあるがままに受け入れそれを楽しみ、日々を全力で生きることもまた素晴らしい。どのような生き方、在り方をするかはその人自身が決めればいいことである。

 

 

そして肝心なことは、思うがままに生きようが、瞬間瞬間を受け入れて楽しもうが、苦しみに没入していてはどちらも実践できない。苦しみや悲しみ、憂や恨みといった思いにとらわれていると、そちらに意識が向かって、思いを現象化することも、瞬間瞬間を受け入れることもできなくなる。最低限自分自身が安定すること。そして可能ならば源泉と繋がること。これによってどのような生き方をも選択できてくるだろう。

 

 

 



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