私は無いと私は在る

2015年04月04日 07:29:48
カテゴリー:覚醒
私が瞑想リトリートなどでお世話になっている、リーラスペースのキヨタカさんから聞いたことだが、ある日キヨタカさんは、フーマンのセッションを受けていた。キヨタカさんはその前にアジズのセッションを受けていて、中心軸を確立していた。

フーマンから、あなたの中心はどこにある?と聞かれ、キヨタカさんは自信満々体の中心に確固たる軸が存在していると、身振りを交えて答えた。するとフーマンはそれではない、とその答えを否定した。
キヨタカさんは面食らったが、フーマンと共に座っていると、確固たる中心軸が広がっていき、希薄になっていった。中心軸が感じられなくなったので、nowhere、と答えると、フーマンは我が意を得たりとばかりにうなずいた。
それからキヨタカさんは、中心軸が広がっていき、全てに偏在している、というようにも感じられたので、everywhere、とも答えると、フーマンは満足そうに同意したという。
このことに関して、フーマンとキヨタカさんとの間で交わされたやり取りを一部紹介する。

キ:私はずっとアジズの修業をしていて、私のI AMという感覚は、ちょうどこのようなんですが、、。

{自分の身体を貫く垂直なエネルギーの柱を指し示して、説明した。}

 

 

フ:最初のステージではその様だろう。

{アジズの下での修業の成果を、最初のステージと言われてショックを受けた。}

 

 

キ:最初のステージ、、ですか?

 

 

フ:そうだ。私の所へ来ると、I AMの感覚がシフトする。

あなたは、自分のIAMをここ(身体を指す)に感じている。
それは始まりに過ぎない。

 

 

キ:・・・・。(返す言葉が見つからない。)

 

 

フ:それからだんだんと進歩につれて、このI AMが広がってシフトする。

それは、あなたのI AMではない。

 

 

それはキヨタカのI AMではない。

 

 

あなたのいう、このI AM は実際には気づきの初期のステージだ。

 

 

これは、完全なI AMではない。

 

 

これがあなたの周囲全体に広がった時、それが真のI AMだ。

 

 

I AMのプレゼンスは、あらゆる所にある。

 

 

しかし探求の始まりとして、ステート オブ プレゼンスの確立を通っていく必要がある。

それはここ(身体を指す)であって、あなたの気づきはそれ程身体から離れないですむ。

その後で、あなたは今への広がりを体験するが、それがすなわちあなたのビーイングだ。

 

 

あなたのビーイングは、あらゆる所にある。

 

それを体験しなさい。

 

マインドが落ちそれを体験して始めて、ノーマインドのフィーリングがある。

 

 

それから、だんだんと統合が起こる。
それが起こると、あなたはそれを完全に体験し始める。

 

 

すると、それはあなたのI AMではなかったことが分かる。

それはキヨタカのI AMではなかった。

 

 

なにかとても違ったもので、非個人的なI AMだ。

それを、UNIVERSAL I AMと我々は呼んでいる。

 

 

あなたのまさに私(ME)がより透明になる。
あなたは、だんだん純粋なビーイングに存在するようになる。

 

 

あなたが修業してきたステート オブ プレゼンスのワークの果実を、私はあなたからもぎ取る。

そしてそれをより高い境地へと広がらせよう。

 

 

その為に、あなたはここへ来たのだ。

 

そのワークのためには、あなたのマインドの大部分を落とす必要がある。

すでに話したとおり、あなたの過去生でのワークは集中するワークだった。

 

 

「あなた」が、集中していた。

 

 

今、あなたは消え去って「今」へと広がっていく必要があり、それは今年中になされるべきだ。

そのワークを私はあなたと共に行う。

 

最初あなたのマインドはちょっと抵抗するだろう。

 

 

やがてあなたの中心がシフトして、中心というものがない状態になる。
そうしてあなたは、周囲全体に平和を見いだすようになる。

 

 

もう一度繰り返すが、あなたのI AMは内側にはない。

 

 

あなたが今を充分に体験すると、「今」はあなたの内側にはない事がわかる。
あなたの肉体の中には位置していないのだ。

 

ワークの第一段階は終了している。

 

 

あなたは、すべてのエネルギーを一カ所に集めた。

 

 

今、このエネルギーはゆっくりと全てに偏在するビーイングへと変容されなければならない。

だからあなたのプレゼンスは、だんだんとあなたの周囲全体へ溶けて広がるのを見てごらん。

 

 

特定の場所には感じなくなる。

 

 

そして、ただ在るというのはどういう感じなのか見てごらん。

 

 

あなたの内側で、いつもそうであるものは何か?

 

 

それはマインドよりも深い。

 

 

そして、純粋なビーイングの感覚として存在している。

それはマインドあるいはキヨタカの思考とは何の関係もなく、ただまさに存在している。

 

あなたの中にあってマインドや思考でないものは何か?

 

 

空になりなさい。

 

 

そしてだんだんとその空があなたのビーイングであり、純粋なビーイングとして存在全体へ広がる。

 

 

目を閉じて…

 

 

集中しないでただ在りなさい。

 

 

空になるように。

 

 

・・・ただ、在りなさい…

・・・ずっとずっと長い間、あなたはただノーマインドのスペースに寛ぐことを待っていた…

 

 

 

最初は中心を確立して、それからそれが拡大していく。初めから中心がないと、非常にあやふやな状態となる。だから始めは中心軸をはっきりさせる必要があるが、そこにとどまってしまうと、広がりや深みが生じない。
中心軸があるというのは、垂直次元のことであり、それは全体の一側面にすぎない。垂直次元の確立から、全方位へと広がっていく。そして中心がなくなる、あるいは全てに偏在していくようになる。
私は無い、という見解と、私は在るという見解もある。中心が無いという立場だと私というものは無いという見解になるし、中心が偏在しているという体感をするならば、私は在るという表現になるだろう。この二つは違うという人もいるだろうが、根底において私は同じことではないかと思う。
私は無いも、私は在るも、間違いなく自我意識による「これが私だ」ではなく、それを超えたものを指している。この点においても二つは根底では一緒である。
私は無いは、仏教的な見解で、私は在るはヒンドゥー教的な見解と言えると思う。自分たちの見解が正しいとこだわる人達は、自分の信じているものは正しくて、他は間違っているとしてしまう。私は無い、私は在るこの二つにおいても、自分が信じるものを肯定し、そうでないものを否定して、論争が起こることも少なくない。
私は無いでも私は在るでも、どちらの見解を用いるとして、自我を超えていけるならどちらでもいいと思う。どちらが正しい、間違っているということは、さして重要なことではない。むしろそれに拘りすぎることで、本質から離れていってしまうこともあり得る。
それよりもどちらの見解であろうと、自我を超えていけるのならば、それこそが真に価値のあることだ。自分の正しさを証明するための論争にふける時間があるのなら、その時間を自我を超えるために使った方がずっといい。正しい間違っているの論争にふけることで、自我を超えるどころか、益々増大させることにもなりかねない。
自我を超えるには、論理や理屈をこね回しても、それで到達することはできない。体感を伴うことで真の理解が生じ、実際に自我を超えていくことができる。ただこの体感もくせもので、自我を超えていく体感ならいいが、自我を増大させてしまうものもある。これは気をつけないといけない。
何らかの体感があり、それを特別視してしまうようなら、それは自我を増大させることとなる。体感があってそれを客観的に見つめ、内面が静まっていくようなら、それは自我を超えていく体感と言えるかもしれない。ただこれも個体差があるので、絶対こうだと言い切れるものではない。間違いなく言えるのは、体感したことにとらわれるとするならば、それは危険であるということだ。
キヨタカさんが体感した、nowhereとeverywhereの体感は、自我を超える体感であろうと思う。それは本を読んでもそう思うし、実際にキヨタカさんと会って話したり、一緒に瞑想をすることでもそれがわかる。
残念ながら今の所自我を超えていく体感をして、それが定着してきている人は、まだそれほど多いわけではない。修行や瞑想をして、何らかの体感をしている人はある程度いる。しかし自我を超える方向に向かう人は、自我を増大させてしまう人より少ない。
だが少しずつ自我を超える方向にシフトしている人もでてきている。こういうと「今は個人主義が蔓延し、かえって自我を増大させる人が増えているじゃないか」という人もいるだろう。確かに表面上ではそう見える。だがその背景では自我を超えつつある人がでてきているのも事実だと思う。
今はシフトの時期であり、いったん個人主義が蔓延し、自我を増大させる人が増えてくるのだろう。しかしある時期がくれば一気に反転する、あるいはじわじわと変化していくのではないかと思う。
こうは言っても私は決して楽観視をしているわけではない。今後自我を増大させる方向に向かうのか、自我を超えていけるのか、それは私たち自身の問題である。今はどちらにも転換し得る状況だと感じる。楽観視も絶望もせず、自我を超えていくことを自分なりに取り組んでいきたい。


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