誕生日にて  時間と記憶について思ったこと

2015年03月06日 10:12:53
カテゴリー:エッセイ

3月2日は私の誕生日だが、先日友人達が我が家まで来てくれて、みんなで飲んで 、食べて、喋って、楽しく過ごした。

あまりにも楽しくて、時間があっという間に過ぎ去ってしまい、昼から始めて夜の23時に御開きとなったが、とてもそれほどの時間が経ったとは感じられなかった。

 

 

これはみんなが体験していることだが、楽しい時は時間があっという間に過ぎ去り、辛い時にはなかなか時間が経たない。

子供の頃夢中になって遊んでいて、気がついたら暗くなっていたというのは、誰にでも覚えがあるだろう。
逆につまらない授業などは、いつになったら終わるのだというくらい、時間がなかなか進まない。

 

 

時間も絶対的なものではなく、相対的なものである。物理的な時間があるように我々は思い込んでいるが、地球の公転と自転を元に人間は時計を作り出し、それによって時間を計っている。
もしも自転や公転のスピードが変わってしまうと、時間も変化するということになってしまう。

事実地球の回転が速まったということも言われているらしい。そうなるといずれは1日が24時間ではなくなってしまうかもしれない。人間の定めた時計も絶対ではない。

 

 

そして時の流れも、それぞれの主観によって大きく異なってくる。子供の頃はなかなか時間が経たず、一年がとても長く感じられるが、大人になると一年などあっという間に過ぎてしまう。これも多くの人が感じていることだろう。

大人にとって5年という年月はこれまでの一生の中でごく一部に過ぎないが、10歳の子供にとっては、人生の半分である。
人生の半分と一生のうちのごく一部では、感じ方が全く異なってくるし、意味合いも大きく違う。時の流れは一様ではない。

 

 

私たちは時に支配されているが、時の支配から脱却し、それが一つの共同幻想に過ぎないと理解できれば、様々な苦痛が軽減され、もっと楽で軽やかに生きることができる。
それは苦痛のほとんどが、過去や未来にとらわれることから生じるからである。

私たちは過去を振り返って「あの時ああしておけばよかった」「あいつにあんな目に遭わされた」などという思いをつのらせ、苦しみに没入してしまう。

また未来に思いを馳せ、「このままでは自分はどうなってしまうのか?」「このままでは将来が不安で仕方がない」というようにやはり苦痛の中に入り込んでしまう。

 

 

ところが今この瞬間に在れば、実際に肉体を痛めつけられたりといった、苦しみの真っ只中にいることがない限り、苦痛にもだえるっこともない。

今ここに在るというのは、時間の幻想から抜け出していくことであり、それによって私たちに真の解放が訪れる。
もちろんこれは単に思い込むだけではダメで、「今に在るんだ、今に在るんだ」と言葉で唱えつつ、意識は過去や未来に在ればそれは意味がない。

 

 

ともかく、時間も幻想であることをまずは理解する。幻想とは全く存在しないということでなく、究極的には存在しないが、この現象界において存在はするが、それは私たちが作り出しているものだと理解をする。

そうすると時間の幻想から少しずつ抜け出していくことができる。そして過去や未来にあまり意識が向かわず、今ここに在ることができるようになっていく。

 

 

このように時に関しての考察を深めたが、今回は記憶についても色々と思うことがあった。

 

 

誕生日では少々アルコールを飲み過ぎて、途中の記憶が抜け落ちていた。
後で確認すると周りに迷惑はかけていなかったが、同じことを何度も繰り返し言ったりやったりしていたらしい。あまりにも楽しくて少し飲み過ぎてしまったが、悪い酒ではなかったようでそれは幸いだった。

 

 

鍋に餃子を入れたかどうか何度も確認したり、鍋のふたを自分で傍らに置いておきながら、「鍋の蓋はどこへ行った?」と周りに聞いていたらしい。
私にはその記憶が全くない。傍から見れば変なおじさんが酔っぱらってあほなことを繰り返していたとしか見えないだろう。

 

 

みんなで鍋を囲み、用意していた材料はみな食べ尽くしたが、自分が鍋物を食べた記憶が抜け落ちている。
しかし、後で聞いてみると私はちゃんと鍋を食べていたようで、自分が覚えていないだけだった。

肉体的には鍋物を食べているが、自分の認識では食べておらず、自分としては鍋物を食べていないに等しい。これはなかなか面白いことである。

 

 

私達は記憶にも支配されている。今回私がみんなから「すっかり酔っていて、鍋を食べていないよ」と言われたら、私はそれを信じ込み、誕生日で鍋物を食べなかった、という認識が生じるだろう。
そして自分にはそれが真実となってしまう。これは考えてみるとなかなか恐ろしいことだ。

 

 

士郎正宗原作の漫画で「攻殻機動隊」というものがある。これは押井守らによってアニメ化もされているが、かなり評判の良い作品である。物語の舞台は近未来で、多くの人々が義体となっており、つまり機械の身体になっている。

そして義体にアイデンティティや記憶をインストールするのだが、偽物のアイデンティティや記憶を植え付けられてしまった人がいて、自分とは一体なんなのか?と苦悩するエピソートがある。

 

 

肉体があり、そこに全く別の記憶を植え付けられたら、肉体はその記憶通りの反応をするだろう。記憶が入れ替わる度に違う反応をしていくならば、肉体は単なる器ということになる。

肉体は私のものだと思い込んでいる人も多いが、このようなことが実際に起こると、果たして肉体が自分のものと言い切れるかというと、それが怪しくなってしまう。

 

 

肉体は自分ではない。記憶も自分ではない。そうすると自分とは何なのか?私は誰なのか?これは人類の根本的な問いかけであり、ラマナ・マハルシはこの問いかけをしていくことが、人を目覚めさせると言っている。

普段私たちは日常に埋没して、こういう問いかけをすることがない。それによって益々本来の自分を見失ってしまう。

 

 

「私は誰か?」という問いかけをできない時は、自我に埋没している状態である。できるだけ自我から離れて、「私は誰か?」の問いかけをすることが大事だが、日常においてはこれを忘れてしまう。

 

 

こうすれば「私は誰か?」の問いかけができる、というものもないが、深呼吸をすることで自我の働きがいったん弱まり、その時に「私は誰か?」をすることがしやすくなる。
また体を動かすことでも、自我の働きが一時的に弱まって、問いかけをしやすくなることもある。

 

 

初めから静かにして、「私は誰か?」と問いかけられる人はあまりいない。自我に翻弄されている状態で、静かに問いかけることはほぼ不可能である。

だからまずは準備が必要で、それは人それぞれ違う。自分にあった形での準備が必要であり、準備が整ったら、ただ静かにして「私は誰か?」を問いかける。

初めは答えなどでてこないだろう。最初はそれでいい。初めからうまくいくことはそうあるものではない。
まずは普段はしない問いかけをするところから入っていく。それを繰り返していくことで、自我を超えたところから回答が与えられることがある。

 

 

ただ これは自力だけではなかなか難しい。やはりしっかりとした指導を受けた方がいいことは言うまでもない。しかし勘違いしてはいけないのは、指導者が回答を与えるのではなく、自分自身で回答を見出すのである。

それを勘違いする人も多いが、あくまでも指導をする人はきっかけを与えたり、方向性をずらさないようにするに過ぎず、あくまでも気づいていくのは自分である。

 

 

誕生日では少々失態も演じたが、今回改めて気づかされたことも多かった。仲間たちと楽しくて過ごし、なおかつ今までよりさらに深い気づきも生じ、とてもいい誕生日となった。

自分自身は固定されたものでなく、瞬間瞬間変化しているが、誕生日という区切りで、より大きなシフトが生じたような気がする。

 

 

宴が終わり静かに内面を見つめていたら、自分を制限していた枠組みが外れていき、より器が広がった感じがする。それは単なる思い込みではなく、実際にそれを体感もしている。
それは時間や記憶に関する気づきが深まったことでもあるだろうし、みんなに祝福されたその恩寵にもよるのではないかと思う。

 

 

年齢は重ねたが、その一方で新たに生まれ変わった自分がいることがわかる。一年後どうなっているか。それがまた楽しみでもある。



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